武蔵野台地の南側に位置する千歳船橋。「船橋」という地名はここが昔、湿地帯で船橋が架けられたという説と船橋吉綱一族が住んでいたという2つの説があります。

戦前は農業や牧畜業を営む人が多くいた千歳船橋ですが、1927年の小田急線が開通した後はアパート経営に転じる人が増え、田畑や牧草地が宅地へ変わったそうです。

小田急線「千歳船橋」駅北口近くの商店街を起点とする「森繁通り」は、この街に長く暮らした俳優・森繁久彌(1913- 2009年)の邸宅が通り沿いに存在したことから誰かれともなく名付けられました。

この通り名が世田谷区から正式名称となったのは森繁久彌の一周忌を迎えた2010年10月のこと。約660mの通りには「森繁通り」の標識や似顔絵入りのプレートが設置されています。

森繁通りを歩くなら、まずは千歳船橋駅北口を左折した場所から。「森繁通り」の標識が掲げられた通りを進むと、そこはスーパーマーケットや八百屋、美容院、パン屋、紅茶専門店、タバコ屋など、さまざまな業種の商店が庶民的な雰囲気を醸す「ちとふな商店街」。2021年にリリースされた「せたがやPAY」に加盟しているお店が目立ちます。

通りの趣がぐっと変わるのはタバコ屋を左に曲がったあたりから。商店がなくなり、マンションや邸宅が連なる閑静な住宅街の顔を見せ始めます。ここから烏山川緑道の前あたりまでが「森繁通り」。ちなみに森繁久彌は緑道脇にあった大邸宅を売却した(等価交換)後、その敷地に建てられたマンションで晩年を過ごしたそうです。

さて、通りの名前にまでなった故森繁久彌は「国民栄誉賞」ほか数多くの栄えある賞を受賞している国民的俳優ですね。元NHKアナウンサーとして満州に渡った経験があるほか、俳優、声優、歌手、コメディアンとして大活躍した森繁は1947年から世田谷、船橋に住み始め、初主演を務めた映画『腰抜け二刀流』(1950年)に出演後、当時存在していた東宝撮影所の隣に邸宅を構えたそうです(その理由も売れっ子になるにつれて、マスコミが自宅に訪れるからだとか)。以来、2009年に他界するまで千歳船橋を離れることなく、暮らしていました。

森繫久彌の邸宅があった場所には現在、マンションが建つ

1964年に誕生した「ちとふな商店街」には森繁邸に呼ばれ、誕生日会で寿司を握ったこともある寿司屋(現在は閉店し、跡地には中華料理店「中華日和」が営業)をはじめ、よく訪れたという蕎麦屋や書店などもあります。かつては通り沿いのベーカリーの壁に「RUE MORISHIGE」とフランス語の看板もありました。歩を進めると、この通りが森繁久彌とともに生きてきたことを感じるでしょう。

千歳船橋駅北口から森繁通りをまっすぐ歩き、つきあたりのタバコ屋を右折すると見えてくるのが、緑豊かなイタリア風の館。オリーブの木がエントランスに立つ、ビストロ「オーランデ・ヴー」です。ランチタイムには数種類のピザやパスタ、和牛ハンバーグ、カレー、発酵ランチなど幅広いメニューが用意され、お昼時を迎えるとランチ客のおなかを満たします。

前述したように、千歳船橋は「せたがやPAY」に加盟するお店が多いエリア。個人商店、ファストフード店やチェーン展開しているお店などが加盟していますが、この「オーランデ・ヴー」もその1つ。お店のスタッフによると、多い時でお客さまの3分の1がせたがやPAYを利用するそうです。

生ハム&ルッコラのピザ 1380円

ところで、森繁通りとは駅を挟んで反対側にある「稲荷森稲荷(とうかもりいなり)神社」は境内に巨木の銀杏が根をはる、商店街のなかにある神社。厳かな空気に満ちています。

稲荷森稲荷神社境内の真ん中に立つ御神木の銀杏

さて、千歳船橋では森繁久彌にまつわるスポットが他にもあります。

1つは千歳船橋駅。ここでは森繁久彌が作詞・作曲した『知床旅情』のメロディーがホームに列車が接近する際に流れます。

もう1つは千歳船橋駅の改札口そばの駅前広場に立つ森繁久彌の胸像(彫刻家・佐藤忠良作)。これは900回を数えたロングラン公演のミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』のテヴィエ(森繁久彌を語る上で欠かせない当たり役)に扮した像で、遺族から寄贈されたものです。

以前、本マガジンに登場いただいた役者の小栗健さんは「私が高校時代を過ごした昭和30年代、森繁久彌はすでに東宝のスターで大活躍していましたね。喋りや演技、どれも人間味があふれ、役者を目指す者の憧れでした」と語ります。

往年の名俳優ゆかりの千歳船橋。この街を訪れたら、ぜひ森繁通りを散策してみませんか。

information

森繁通り

世田谷区船橋1-9-10(千歳船橋商店街振興組合)

http://chitofuna.tokyo/