幼少の頃から現在まで、暮らした場所のほとんどが城南地区という役者の小栗 健さん。高校時代から馴染みのある学芸大学や放課後によく立ち寄ったという渋谷の思い出を語っていただきました。

“この日、小栗さんと待ち合わせたのは東急東横線「学芸大学」駅。祐天寺にある高校に通っていた昭和30年代半ばから親しんできた街だそうです。当時の学芸大学はどのように映っていたのでしょうか。

小栗健(以下、小栗)

鷹番に高校の同級生が住んでいたこともあり、よく遊びに行っていました。今の学大は「東京で住みたい街」にランクインするぐらい、人気の街になっているようですが、昭和30年代は畑の広がる田舎。農道の続く寂しい町でした。今は高級住宅地といわれるエリアも当時、ここに家を所有したいと思う人は少数派だったと思いますよ。隣の祐天寺も都立大学もそう。これほどにぎわう地域になるとは思いもしなかったな。

鷹番という町名が付いているくらいだから、将軍家が鷹狩りをするための重要な地域だったのでしょう。昔の道は江戸城に向かって整備されたと思います。その名残かもしれませんね、学大の住宅地の道の目が整っているのは。

学芸大学のシンボルといえるのが碑文谷公園。久しぶりに来たけど、ここは当時とあまり変わっていない気がします。

気さくに対応してくださる小栗さん

”東急東横線「学芸大学」駅は昭和2年の東横線が開通された時には「碑文谷」駅と名付けられ、昭和11年には「青山師範」駅、昭和18年には「第一師範」駅に。現在の「学芸大学」の駅名に改称されたのは昭和27年のこと。昭和39年には地下通路ができ、現在のように高架化されたのは昭和45年でした。”

昭和39年学芸大学駅工事

小栗

学芸大学駅は今や高架化され、その下にはスーパーもあります。ホームに行くのもエスカレーターやエレベーターが使えますが、私が高校生の頃の駅舎は小さな木造で狭い構内でした。電車も地べたに線路が渡され、のどかな田園風景のなかを走っていました。

駅からのびる西口商店街には兜造り(外観が兜に似ていることから名付けられた建築様式)の住宅が並んでいました。その家々は鰻の寝床のように奥に長く、たいてい2階建。現在の多種多様なお店か軒を連ねる西口商店街とは違って生活に必要なものを売るお店が民家に混ざって点在していましたね。

西口商店街からちょっと脇に入ったところにある小劇場「千本桜」は役者になってから舞台に立ったことがあります。学大と演劇はあまり結びつかないと思いますが、この小劇場は学大の老舗です。

”現在の発展した学芸大学が昭和30年代にさかのぼると、田園地帯だったとは驚きです。小栗さんの高校生活や学芸大学のある東横線沿線の印象はどのようなものだったのでしょうか。”

小栗

通った高校は祐天寺にある都立目黒高校です。校章には杉がデザインされていますが、これは今も校内にそびえるヒマラヤ杉です。この木は大正時代からあり、伐採されそうになったこともありましたが、それを逃れて今も成長し続けています。目黒の歴史を刻んでいる木といえるでしょう。

祐天寺も学芸大学も娯楽を楽しむ場所はほとんどありませんでした。東横線沿線だと、田園調布は高級住宅地としてすでに別格だったし、自由が丘は小説『自由が丘夫人』(武田繁太郎 著)が出版され、映画化されたイメージも手伝い、上品で華やかな印象。けど、どちらも男子高校生が遊びに行くようなところではなかったですよ。若者が遊ぶなら断然、渋谷でしたね。

高校では水泳部に入部し、部活が終わったら千歳船橋の自宅に帰る前に渋谷に寄るのがほぼ日課。食べ盛りだから、渋谷でラーメンをすするのが楽しみでね。ちなみに当時のラーメンは50円。今みたいに○○ラーメンというジャンルもなく、醤油ベースのシンプルな味つけでした。

渋谷ではセンター街や円山町などに繰り出していました。昭和30年代後半から40年代は、若者をターゲットにした店やチェーン店なんてものはなくて、飲食店やファッションを売る個人商店ががんばっていましたよ。ちょうど時代もGS(グループサウンズ)やエルビス・プレスリーに日本中が沸いた頃で、街の熱気と重なり、音楽からおおいに刺激を受けました。渋谷にはその頃流行っていた音楽を聴かせるジャズ喫茶があり、背伸びしてオトナの気分を味わうためによく通ったものです。

もうなくなった東急東横店東館の屋上と玉電ビル(東急東横店 西館)の屋上を結ぶケーブルカーも運転されていましたよ。東急プラザも東急本店も渋谷西武もまだ建設されていない時代のことです。

あの日この顔p83碑文谷公園(スキー)

”高層ビルが建ち並び、「都会の雑踏」のいう言葉を視覚化したような渋谷の現在からは考えられない昔の姿。小栗さんは多感な頃を刺激的な渋谷で過ごしたことやテレビ業界で働きたいという思いから芸術系の大学に進学することに。大学4年生の時には日本で初めてのオリンピックが開催されました。”

小栗

日大芸術学部演劇学科に進学し、舞台演出や演劇を学んだことから芝居に興味を持ちました。演じる楽しみを体感してしまったんですよね。日芸の同級生には演出家の串田一美もいましたね。学生時代はテレビ局で演出のバイトに明け暮れました。

昭和39年の東京オリンピックは家のテレビで観ました。家庭でオリンピックを観るためにテレビがものすごい勢いで売れた時代です。新聞配達屋さんの脇に街頭テレビが置かれ、町の人が集まってオリンピックの試合を見ていた光景も覚えています。

大学卒業後は役者一本で食えないから、広告代理店に勤めていた時期もありました。その後はカッコ良く言えば「二足のわらじ」で、弟が一級建築士だったこともあり、建物の内装管理の仕事もしていましたね。

役者も内装の仕事も人とのご縁のものだと思います。役との巡り合いも誰と知り合うかで決まりますし。2011年の東日本大震災の時、2ヶ月ぐらい東北にボランティアに行き、自分のできる範囲で壊れた家を直しました。そのことがきっかけとなり、現地で知り合った人から後年、思いがけなく内装の仕事を依頼されたこともあります。

”NHK大河ドラマ『徳川慶喜』をはじめ、ドラマ、CMなどに出演してきた小栗さんですが、ここ数年は下北沢の劇団に客演することも多く、チェーホフの『かもめ』や書き下ろされた脚本の舞台に立っています。”

小栗

80歳近い私に声をかけてくれることが嬉しいですよね。稽古場は下北沢に近い場所にあり、自転車で通っています。実は2020年からコロナ禍の影響を受け、キャンセルになった舞台もあります。演劇界もほかの「密」が懸念される業種同様、深刻な状況です。演劇は役者、演出家、照明や音響、衣装などを担当するスタッフの力が結集されるもの。仕事が突然無くなってしまったら、どうやって生活していけばいいのか…。コロナ禍の早い収束を、そして演劇を楽しめる世の中に戻ることを願っています。

小栗 健プロフィール

1941年生まれ。日本大学芸術学部演劇学科卒業。NHK大河ドラマや土曜ワイド劇場、数々のCMに出演。浜畑賢次(東宝出身)、浜畑賢吉(劇団四季出身)、上村香子(東宝)が役員を務める劇団に所属。現在はフリーとしてさまざまな劇団に客演及びプロデュース公演に参加する。