静かに草を食んでいたり、人を背に乗せてゆっくり歩く馬の姿。
眺めているだけでほのぼのとした気分になり、心の内側から平和で満たされていくのを感じます。

馬と人との繋がりは深く、永く、きっと人には馬と主に歩んできた太古からのDNAが濃く刻まれているのだと思います。

東京・城南地区で馬を身近に感じられる場所の1つが「JRA馬事公苑(ばじこうえん)」。
馬事公苑は1940年の東京オリンピック(日中戦争の影響で中止)に向けて、騎手の育成や馬のトレーニング、馬術競技会の開催を目的に作られました。母体である帝国競馬協会(日本競馬会の前身)が広大な土地を必要としていたところ、1934年に玉川村耕地整理組合を通じて、世田谷区上用賀の約5万坪の土地を購入。整地作業には多くの人が関わり、学生の勤労奉仕も行われたそうです。

2019年に開催された「READY STEADY TOKYO 馬術・障害」(東京都提供)

1964年の東京オリンピック馬術競技が開催された馬事公苑は「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会」でも馬術競技が開催されるにあたり、2017年1月より休苑。そして約7年間の工事期間を経て、2023年11月にリニューアルオープンしました。

世田谷百景にも選ばれている、ロマンティックな空気がたなびく「けやき広場」を進むと、新生・馬事公苑の正門へ。
かつての馬事公苑をご存知の方なら正門からの風景に「(視界が)開けた!」と感じることでしょう。

正門の目の前は広々とした芝生の「はらっぱ広場」。
少し冬枯れした黄緑色の芝生、近く遠くのさまざまな緑色の木々、そして心に沁みるほどの青空!
まっすぐ張った心の糸を一瞬にしてゆるませる、なんと心安らぐ光景なのでしょうか。
芝生の上を歩いてみるとやわらかく、人の足へのやさしさを感じます。

リニューアルされた馬事公苑にはいくつか新設されたものがあります。正門前の馬の親子像やさまざまな遊具が置かれた子どもの遊び場など。そこでは終始、子どもたちの高らかな遊び声が響きわたっています。

はらっぱ広場の横にそびえる建物は「メインオフィス」。
内装に木がふんだんに使われた1階には馬車や馬をモチーフした木製遊具が用意された「キッズコーナー」や乗馬を疑似体験する馬型シュミレーター、書棚やテーブル&チェアが置かれたスタイリッシュなラウンジ空間「ホースギャラリー」が。まさかこれほど趣向を凝らした空間が待ち受けているとは…。馬に親しんでほしいというJRA渾身の想いがみなぎっているのを感じます。

3階建ての「メインアリーナ」は苑内で一番高層の建物
吹き抜けの1階ロビーはシャープな直線が際立つ空間

ホースギャラリーでは馬や馬術関連の本や図鑑を読むこともできたり、馬事公苑や馬術の歴史についての映像を視聴することも可能。テーブルではお弁当を食べる親子の姿も見られました。書棚の横にはスマホ充電スタンドも置かれ、さりげない配慮を感じます。

よく見るとこの書棚は左から「HORSE」とデザインされている

さて、メインオフィスの空間に身を置くと、そこここに「木」のエッセンスが感じられます。馬事公苑ではリニューアルにあたり、苑内で伐採した老木や病木をできるだけ活用することに努めたとか。「木づかいプロジェクト」と名付けられた樹木の再生術はメインオフィスの内装や家具、遊具、丸太ベンチなどに見ることができます。

ホースギャラリーの奥にあるカフェスタンド。ここも木の再生材で作られている
リニューアルにあたり、苑内の建物は日本らしさを感じる設計に。庇が大きくとられているのが特徴だ

メインオフィスの前に広がるのは2021年夏に開催された東京五輪・パラリンピックで使用された馬術競技場「メインアリーナ」。
生まれ変わったアリーナはこの大会を機に馬場に国際基準の砂を採用したそうです。馬場にふれてみると白砂にフェルトの切れ端が混ぜ込まれ、ソフトな仕上がり。

メインアリーナのスタンド席ではお弁当を食べることもOK。
日常を飛び出して、馬術競技の舞台の片隅に身を置いてはいかがでしょう。

誰もいないメインアリーナは馬場の砂、観客席、柵の白さが近未来的でもある

メインアリーナに隣接するのは室内馬場「インドアアリーナ」。
この建物の裏側には厩舎が並んでいます。運がよければ、馬の顔が少しだけ見ることができるかも!

インドアアリーナの裏手には厩舎が並ぶ。思いがけず馬の頭部が見えると嬉しくなる
用賀駅方面を望むとパドックや2つの馬の訓練場、ナチュラルアリーナが広がる

「放牧場」や馬の訓練場である「Aスクエア」「Bスクエア」では午前中であれば、馬に出会える可能性が高いそう。
正門から一番奥まった「ナチュラルアリーナ」まで来ると、はらっぱ広場の喧騒がどこへやら…といったような静けさに包まれています。

小規模な馬の訓練場の前にある石のベンチ。馬場の向こうにはインドアアリーナ(左)と厩舎(右)が見える

「武蔵野自然林」のエリアでは生い茂る樹木に囲まれた道をのんびりと散策できます。
大人も子どもも夢中になって駆け巡ってしまうのが、スロープが付いた空中立体歩廊「フォレストパス」。バリアフリーで車椅子やベビーカーも利用できます。
途中には鳥の巣のようなツリーハウスもあり、なかに入ることも可能。
ちなみにこのツリーハウスもメインオフィスの内装材や遊具同様、苑内で伐採した木を再利用しています。

ツリーハウスのなかは小さな階段のついた小部屋になっている

さて、1964年、2021年に開催された東京五輪大会の馬術競技の会場になった馬事公苑ですが、その歴史を伝えるレガシー(遺産)がこちら。
馬の顔型の手洗い場とメインオフィス1階に見られる騎馬アートです。

この騎馬像をよく見てみてください。
TOKYO 2020 TOKYO1964 などの文字や乗馬服や馬具などのイラストで構成されています。

メインオフィス2階のレストラン「リナトキッチン」もリニューアルを機に新たに誕生しました。
馬を愛する方はぜひ、テラス席へ。
ゆったりとしたラグジュアリーなソファとテーブルが配され、メインアリーナでの競技を見ながら食事が楽しめる仕掛けがなされています。

室内も広々と自然光がたっぷり取り込める設計がなされ、テーブルもゆとりある配置。居るだけで多幸感を感じる空間です。さらには朝9時からモーニングも楽しめる点も見逃せません。

「ザクもちっ!クロップル」(1,078円)はソースとアイスクリームが選べる

ところで、戦前は東京・城南地区では馬を移動手段とする人が少なくなかったようです。
世田谷区の郷土資料を紐解くと、1935年に駒沢村下馬から梅丘まで馬で通学する青年の姿をとらえた写真もあり、当時は馬が普通に使われていたことがわかります。

それ以前から馬と人は共に歩み、古くは軍馬、乗馬、農耕馬として人間の暮らしに欠かせない存在でした。また、日本では戦時中、馬にも召集令状が届き、戦場に消えた馬たちが多くいたことを忘れてはなりません。

「READY STEADY TOKYO 馬術・障害」(2019年)のワンシーン(東京都提供)

このご時世、「帰馬放牛(きばほうぎゅう)」という言葉を思い出します。

馬を帰し、牛を放つ。
中国の故事ですが、戦争で用いた馬や牛たちを野に帰し、再び戦争をしないという意味です。
毎日のように報じられる緊迫した世界各地の紛争がなくなり、平和が戻りますように。

1994年の苑内風景(東京都提供)

馬と親しめる馬事公苑は人々の安らぎの場であり、そして平和を考え、望む場にとらえることもできるでしょう。

令和の新生・馬事公苑の物語は始まったばかりです。

information

馬事公苑
東京都世田谷区上用賀2-1-1 JRA馬事公苑
03-3429-5101
https://jra.jp/facilities/bajikouen/