城南地区でスポーツにゆかりある公園といえば、多くの方が「駒沢公園」(正式名称 「駒沢オリンピック公園総合運動場」)を思うのではないでしょうか。41.3haという都内有数の規模を誇るこの公園は1964(昭和39)年、アジアで初めて開催された「東京オリンピック」では第2会場としてレスリングやバレーボール、サッカー、ホッケーの試合が行われたことから公園名に「オリンピック」を冠することになりました。

今ではスポーツの試合はもちろん、さまざまなフードフェスのイベント会場やテレビドラマや映画のロケ地になることもあります。早朝は樹々の緑の下に設けられたランニング走路でジョギングをする人たちや愛犬の散歩をする人たちも。毎日この公園に通うことで顔馴染みとなった人たちも少なくない様子で、挨拶が飛び交うのも朝の光景です。

◼︎近隣の子どもたちがキャディを務めた「ゴルフ場」

この公園を「スポーツ」に焦点を当て、その歴史に迫ってみましょう。

かつての住所は東京府荏原郡駒沢村深沢。通称「大切山(でんぎりやま)」と呼ばれた雑木林に覆われた寂しい場所でしたが、横浜正金銀行総裁の井上準之助氏が土地を借り、大きな木々を伐採して整備した末、9ホールのゴルフ場「東京ゴルフ倶楽部」が大正3(1914)年に誕生。日本初の日本人が運営するゴルフクラブとなりました。後に18ホールまで拡張されたゴルフ場は1932(昭和7)年に埼玉県膝折村(現在の朝霞市)に移転しましたが、駒沢時代から皇族や貴族がプレイに訪れた名門クラブとして知られています。(現在、埼玉県狭山市で開場)東京ゴルフ倶楽部の公式HPはこちら

駒沢に開場されたゴルフ場でキャディを務めたのは深沢や駒沢、三軒茶屋など、近隣に住む子どもたちでした。『ふるさと世田谷を語る 深沢・駒沢三〜五丁目・新町・桜新町』(世田谷区)によると、子どもたちは最初は好奇心でゴルフを見ていたものの、学校が終わるといち早く駒沢に訪れてキャディの手伝いを始めました。当時の子どもは着物姿でしたが、やがて都立大学理工学部のあたりにクラブハウスのキャディ小屋が建ち、登録すると、キャディ番号が付けられた学生服が支給されるようになりました。着物からハイカラな学生服に着替えて行うバイトは子どもたちにとって憧れの的だったのでは?と想像します。

キャディを務める着物姿の子どもたち。1922(大正11)年頃 ©東京ゴルフ倶楽部

ちなみに子どものキャディのバイト料ですが、9ホールを1ラウンドすると10銭、1ラウンド追加で5銭加算で1日30銭(大人のキャディは1円20銭)位だったそうです。なかにはチップとして50銭銀貨をくれる人もいたとか。当時の職人さんの賃金が1日1円位だったので、キャディはかなりの高収入が期待できるバイトでした。

経営が目蒲電鉄(現在の東急電鉄)に移り、パブリックコースの「駒沢ゴルフ場」になったのは1932(昭和7)年のこと。その後は東京都が買い取り、1940(昭和15)年の「東京オリンピック」のメイン会場候補地として、110,000人を収容予定のスタジアムをはじめ、水泳競技場、選手村が建設される計画がありましたが、日中戦争が長期化したことでオリンピックは開催返上となり、ゴルフ場のままでした。

駒沢公園通りにさりげなく建てられている「駒沢ゴルフ場跡」碑

◼︎日ハムのルーツ!?プロ球団のホームだった「駒澤野球場」

第二次世界大戦戦時下の1943(昭和18)年にはゴルフ場が防空緑地となり、畑となった時期もありました。そして1949(昭和24)年には競技大会が開催できる運動場として整備され「第四回国民体育大会」の会場に。1953(昭和28)年には東急電鉄が「駒澤野球場」を造営し、プロ野球の「東急フライヤーズ」(翌年には「急映」。そのオフには「東急」に戻り、1954年に「東映」が冠に。現在は「北海道日本ハムファイターズ」)の本拠地となりました。今年、ビッグボスこと新庄剛監督の就任が話題となった日ハムが、駒沢に所縁ある球団だったとは驚きです。

駒澤野球場で行われた「東映フライヤーズ」と「南海ホークス」の試合。1953(昭和28)年 ©世田谷区

「駒沢の暴れん坊」と呼ばれたフライヤーズのホームだった頃、野球場の横にはホッケー場と送球場(ハンドボール)もありました。なお、駒澤野球場は東京オリンピックの第2会場となるべく整備にともない、1961(昭和36)年に解体。現在、駒澤野球場だった頃の名残は見られませんが、補助競技場から管制塔を含む周辺が野球場だったそうです。

昔は駒澤野球場があった補助競技場。1964年の東京五輪では第三ホッケー場として使われた

◼︎2021年、東京の聖火リレーは駒沢からスタート

1964(昭和39)年の東京オリンピックのために建造された施設の多くは老朽化のため解体されたものもありますが、改装を経て五輪開催当時の姿をとどめている建物もあります。

五輪のレスリング会場として使われた体育館は1993(平成5)年に全面改装され、今もなお現役。地階にある「オリンピックメモリアルギャラリー」は自然光が入るガラスの天井を取り付けた、増築された空間です。ここには1964年と2021年に東京で開催されたオリンピックについての資料や名場面の写真パネル、選手団のユニフォーム、聖火トーチ他を展示。写真撮影できるものは限られていますが、初めて東京で開催されたオリンピックの熱気が感じられる展示がなされています。

五輪メダリストがテレビ番組で訪れることもある「オリンピックメモリアルギャラリー」(入場無料)

中央広場北側の池の中にある聖火台の脇に建つ「オリンピック記念塔」(管制塔)も五輪の歴史を刻む建築。オリンピック開催当時はこの塔の最上階から交通を管制し、会場の電気や水を管理しました。高さ約50m、地下1階、地上12階建ての塔は園内の体育館も手がけた建築家・芦原義信(あしはら よしのぶ)の設計。彼は銀座ソニービルや池袋の芸術劇場も設計者でもあります。

井桁に組まれた意匠が迫力ある管制塔は「昭和の五重塔」とも呼ばれる

現在も公園内のインフラを管理するオリンピック記念塔は聖火台とともに池のなかに建ち、今もなお園内の心臓部として働き続けています。また、この管制塔はミッドセンチュリーの意匠を伝える貴重な建築でもあるので、昭和の匂いのする建築に興味のある方はぜひ体育館や陸上競技場と共に鑑賞してはいかがでしょうか。

「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会」は本来の会期から1年を経て、2021(令和3)年7月23日~8月8日、8月24日~9月5日に開催されました。開催に先立ち、同年7月9日には駒沢公園の陸上競技場では小池百合子 東京都知事を迎え、聖火のお披露目式が無観客で行われたことは記憶に新しいことでしょう。

五輪を象徴する聖火が半世紀以上を経て駒沢オリンピック公園に還り、ここから東京の聖火リレーが始まりました。コロナ禍の影響で沿道の応援に行けない状況でしたが、聖火が再び駒沢に還ってきたことは人々の心に火をともした出来事でした。とりわけ初めて東京で開催された五輪大会を知る人は胸に熱いものがこみ上げたことでしょう。

さて、東京2020大会から正式種目となったスケートボードが人気を集め、競技人口が増えている今、ここ駒沢公園ではスケボーがプレイできる「ストリートスポーツ広場」が若者たちの熱気にみなぎっています。ここから将来のメダリスト誕生なるか!? 駒沢公園はとりわけスポーツの分野において、イニシアティブを握る運命を宿した土地柄なのかもしれません。

駒沢公園にある「ストリートスポーツ広場」にはプロスケーターから初心者まで、多くの人が利用
information

駒沢オリンピック公園総合運動場

世田谷区駒沢公園1-1

TEL 03-3421-6431(駒沢オリンピック公園管理所)