東京都大田区で田園調布、山王とともに高級住宅地といわれる久が原。城南地区を流れる呑川(のみかわ)の右岸に台地を形成し、縄文・弥生遺跡が点在していることでも知られています。町名の由来は「空閑(くが)地」からという説や「久(永遠を意味する)しい野原」という説があります。

実際、1927(昭和2)年に発掘された久が原遺跡からは弥生時後期に現在の久が原4丁目から6丁目にわたり、1000軒以上の住居跡が存在していたものと考えられています。古代から集落が形成されていた久が原は宅地としての歴史が古い街といえるかもしれません。

さて、この街で知るぞ知る聖域をご紹介しましょう。それは「久が原出世観音」。

東急池上線「久が原」駅から歩いて約15分。住宅が連なる街区の一角にある「久が原会館」の脇に山門を構えていますが、あまりにもさりげなさすぎて、初めて訪れる人にはわかりにくい場所かもしれません。

しかし、木を渡しただけのシンプルな山門から細い参道を通り抜けるとそこは別天地。さっきまでの住宅街はそこにはなく、草木の緑が丁寧にととのえられた庭、その奥に美しい年季を感じさせる小さな観音堂が建っています。

本堂

この地の縁起を紐解くと、お堂を建立したのは花柳界出身の伊藤きんという女性で、現在は東京・築地にある高級料亭「新喜楽」の初代女将を務めた人物でした。芥川賞と直木賞の選考会場ということで新喜楽の名前をご存知の方もいらっしゃるでしょう。出世観音は昔、四千坪以上の広大な敷地に建っていた伊藤きんの別荘に由来します。

伊藤きんについて書かれた本はほとんどありませんが、初代総理大臣の伊藤博文や井上馨、山県有朋とも交流が深く(久が原の別荘を訪れたこともあるそう)女傑といわれたそう。きっと臆することなく「物申す」タイプの女性で、名物女将だったのでしょう。やがて伊藤きんは仏道に入り楽遊禅尼となり、多方面に功徳を施す人生を歩んだようです。現在お堂に祀られている観音像は一説によると、1909(明治42)年にハルピンで暗殺された伊藤博文を偲び、奈良吉野にある金峰山寺の観世音菩薩を模したものだとか。

まるで阿吽像のような鳥の彫刻

彼女は1915(大正4)年に他界しますが、主人を失った別荘地は荒れていき、1945(昭和20)年5月の空襲で別荘内の建物をほとんど消失。現在の観音様を祀ったお堂だけが残りました。この一帯はやがて野村證券の所有となりましたが、地元の人たちの働きかけから山門から観音堂まで自由に参拝できるようになり、現在に至ります。空襲に遭いながらも奇跡的に生きのびた観音様は知る人ぞ知る存在のようで、おしのびでやってくる政財界の参拝者も多いとか⁉︎普段は御簾がおろされている観音像がご開帳になるのは1月1日〜3日。ご興味のある方は参拝されてはいかがでしょうか。

Information

久が原出世観音

東急池上線「久が原」駅下車徒歩約15分。「久が原会館」隣