皆さんはお住まいの区(自治体)の花をご存知でしょうか。
東京・城南地区であれば、世田谷区はさぎ草、目黒区ははぎ、大田区は梅、品川区はさつきが「区の花」に制定されています。

純白のさぎが翼を広げているかのような可憐で繊細な花、さぎ草。
この花が世田谷区の花となったのは1968(昭和43)年で、区民から公募して決まりました。

実は世田谷区にはさぎ草にまつわるこんな伝説があります。

ときは16世紀後半。世田谷城主・吉良頼康(きら よりやす)は家臣にして奥沢城主である大平出羽守(おおひらでわのかみ)の娘・常盤姫(ときわひめ)を側室にしていました。その美しさゆえ、頼康に寵愛された常盤姫でしたが、妬む者がいました。頼康の側室たちです。彼女たちは常盤姫を陥れるため、姫が不義を犯したかのような話をでっちあげ、頼康に告げます。最初は気に留めていなかった頼康でしたが、何度も聞かされるうちに姫を疑い、遠ざけるようになります。

死を決意した常盤姫は、幼い頃から可愛がっていた白さぎの足に身の潔白を記した遺書を結び、実家の奥沢城へと放します。飛び立った白さぎはやがて、奥沢城近くで狩りをしていた頼康の矢で射落とされてしまいました(一説には足に結ばれた遺書の重みで力尽きてしまったとも)。白さぎの足に結ばれていた遺書を読んだ頼康は、常盤姫の無実を知り、急いで世田谷城に戻りますが、時すでに遅し。姫は息を引き取っていました。後に白さぎを奥沢城の近くに埋めて供養したところ、なんと翼を広げた白さぎに似た花が咲きました。

白さぎに似ている花…。「さぎ草」です。

常盤姫が放った白さぎが射落とされた場所といわれるのが「九品仏 浄真寺(くほんぶつ じょうしんじ)」(正式名称は「九品山唯在念佛院浄真寺」)。姫の実家である奥沢城址に建てられ、今も境内の鐘楼の後方にある土塁跡が奥沢城の微かな面影を伝えます。

浄真寺を創建した珂碩上人のご尊像をお祀りする開山堂
鐘楼の後ろには奥沢城の面影を伝える土塁跡が続く

浄土宗に属するこのお寺は1678(延宝6)年、珂碩上人(かせきしょうにん)が「九品浄土(くほんじょうど=阿弥陀如来の極楽浄土)」を目指し、創建しました。「九品仏」とは彫刻に秀でた珂碩上人と弟子の珂憶上人が作った9体の阿弥陀如来坐像が3つの阿弥陀堂に3体ずつ安置されていることに由来。今や九品仏の名は東急大井町線の駅名や地域の名称としても親しまれています。ちなみに九品仏駅のお隣・自由ヶ丘駅は昔「九品仏前駅」という駅名でした。

カヤやイチョウ、トチ、高野マキ、菩提樹などの古大木がそびえる緑深き広い境内(約12万㎡、3万6千坪)では幼稚園が開設されていた時代もあったそうです。幼稚園を閉めた後は近所の子どもたちの格好の遊び場として親しまれていましたが、京都の古刹を意識した植樹を施したことが呼び水となり、風趣な参道がのびる境内に広がる四季折々の美しい自然や点在する歴史ある建造物が注目を集めるようになりました。御朱印も昔は1日5枚程度でしたが、最近の御朱印ブームも手伝い、今や休日には200枚ぐらいを手がけることもあるそうです。

雨が続く季節は濡れた参道や緑が絵になり、情緒を誘う
推定樹齢700年以上のカヤ、イチョウは天然記念物。古大木のある境内は清々しい

本堂の前には白さぎの像が配され、前述した9体の阿弥陀如来像が安置される3つの阿弥陀堂と向かいあうように位置しています。履き物を脱いで中に入ると、広いお堂の正面に金色に輝く巨大なご本尊(釈迦牟尼仏)が鎮座。ご本尊の脇には病気を癒す賓頭盧(びんずる)像や浄真寺を創建した珂碩上人の遺骨が納められている五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀仏坐像もあります。

緑豊かな境内に建つ本堂。初夏になると境内で収穫された枇杷や梅がふるまわれる
長い時間、衆生のために考え抜いた様がヘルメットのような長大な螺髪に表現されている五劫思惟阿弥陀仏坐像

扁額にも見られますが、この本堂は「龍護院」ともいわれます。実は浄真寺の守護神は龍神。かつてお寺を創建した珂碩上人が鎮め、供養した2体の龍が龍神となり、本堂の柱に祀られています。

本堂に対面するように配されているのが九品仏の名前の由来となった9体の阿弥陀如来が鎮座する3棟の阿弥陀堂(三仏堂)。左から「下品堂」「上品堂」「中品堂」で、3棟とも1698年に建造されました。9体の像は順次、修復作業に出されているそうです。

さて、こちらの阿弥陀如来像。ぱっと見「パンチパーマでブルーの髪って映える〜」と思ってしまいますが、これには意味があります。まず、パンチパーマ風の髪型。これは螺髪(らほつ)といい、右まわりの螺旋状の粒(縮れ毛)こそ仏陀の特徴的な髪型(髪質)です。そして、目がさめるようなブルーの毛色ですが、仏陀の頭髪は本来、青瑠璃色なのだとか。ご本尊の釈迦牟尼仏も含め、このお寺ではきちんと仏様の姿を再現されているのです。

本堂を娑婆、三仏堂(上品堂)を浄土に見立て、お面をかぶった二十五菩薩が架け橋を練り歩く伝統的な行事「お面かぶり」

本堂脇にある小さな園は「さぎ草園」。現在、さぎ草が自生することはなく、この園の球根や移植などは世田谷区が管理しているそうです。毎年7月中旬になると水苔に植え付けられたさぎ草が世田谷区の職員によって移植され、7月下旬から8月上旬にかけて小さな可憐な花を咲かせ、人々の目を楽しませています。

高さはおよそ10センチほど。さぎ草園の中でぽつぽつと真っ白な花びらを広げている

奇しくもここ浄真寺は常盤姫が育った奥沢城があった地。さぎ草園は悲しみの末に自決した姫を慰める聖域のようにも思えます。

さて、「さぎ草」にまつわる伝説に興味をもち、この記事の企画・撮影を担当したのは本マガジン編集部のM嬢。子どもの頃から民俗学に興味をもち、國學院大学で民俗学を学んだ彼女は次のように考察します。

「『史料に見る江戸時代の世田谷』(下山輝夫編)や『世田谷城下史話』(人見輝人著)によると、さぎ草に纏わる伝説は幾つかあり、『鎌倉幕府に献上する為船に積み込んだ白さぎが転覆によって死に、その場所にさぎ草が咲いた』『世田谷城が包囲された際に援軍要請をつけて飛ばした白さぎが撃ち落とされ、その場所にさぎ草が咲いた』等様々。世田谷の郷土文学と言える『名残常盤記』(参照:『世田谷城名残常盤記-世田谷風土記-』(鈴木堅次郎著))の常盤姫の話には、白さぎは登場するものの、死んだ場所からさぎ草が生えるという記述は見られません。伝説が語り伝えられていくうちに融合し、今の形になったのではないでしょうか。

この『名残常盤記』は、常盤姫が実家の奥沢城から和歌を足に括り付けた白さぎを逃がし、それを捕まえた吉良頼康が和歌の詠み人を一目見たいと探した末に出会うという、まるでシンデレラのような始まり方をしています。

また、常盤姫が死んでしまった後に白さぎの大群が不吉に鳴いたとも。
世田谷の人々にとって白さぎとさぎ草、それにお城がいかに身近であったかが窺えます」

さぎ草の花言葉は「無垢」「清純」「神秘的な愛」「芯の強さ」など。この花言葉に身の潔白を表した常盤姫の姿を重ねてしまいます。

INFORMATION

九品仏 浄真寺

東京都世田谷区奥沢7-41-3

TEL 03-3701-2029

https://kuhombutsu.jp