JR「品川」駅高輪口から左側に見える八ツ山橋陸橋を越えると、ほどなくして東京マリオットホテルやオフィス、レジデンスが一体となった「御殿山トラストシティ」が目の前にそびえ立ちます。

都会によくある複合施設と思いきや、実は東京マリオットホテルの南側には「隠れ庭」と呼びたくなる、密やかで手入れの行き届いた庭園が隠されています。

その名も「御殿山(ごてんやま)庭園」。
絢爛な響きの名が表す通り、かつては領主・品河氏や太田道灌が暮らした「品河の館」があり、江戸時代に徳川家康が行殿(あんでん、将軍の臨御の際に用いた仮御殿)を造営した、時の権力者に愛された地。その名は家康が行殿を造営した頃に生まれたようです。また、御殿山自体も一部が品川神社に隣接するほど広大でした。

ちなみに、本マガジンでも紹介した「品川寺」のご本尊「水月(すいげつ)観音」は品河氏が空海から授かった守り本尊で、品河左京亮(さきょうのすけ)の時代まで約600年間、一族が守ってきたものでした。

将軍家ゆかりの庭園は入口が数ヶ所あり、どこから入っても緑が滴る美しい景色が広がります。
斜面地に巡らされた散策路から天を仰ぐとモミジの葉と葉が繊細なレースを作り、地面には生命力みなぎるシダ類やカエルの傘のようなツワブキがぎっしりと地面を覆います。ところどころに四季折々の花も植えられ、訪れた際はちょうど紫陽花が見頃を迎えていました。

遊歩道にはベンチも設けられ、緑をのんびりと楽しむこともできる

また、庭園の奥まった場所にはマリオットホテルのチャペル「フォレスト」があり、その前には建物を映す水鏡を作る豊かな水をたたえた池、そして人工の滝なども配されています。

ピカソやブラックが描いたキュビズムを想起させる石造りの滝は高所から大岩壁を水が勢いよく流れ落ち、それがなかなかの爆音。
無数の飛沫を飛ばす滝が大音量で鳴らす水音もさることながら、JRのレールを走る電車の耳を聾(ろう)する音も相当なもの。
庭園の静けさをかき消してしまう音の正体を実際に見るべく、高台にある庭園脇の小道からJRの線路側をのぞいてみました。なんと真横にはいくつもレールが渡され、そこからはひっきりなしに走りすぎていく山手線、京浜東北線に東海道新幹線の車両、そして成田エクスプレスが! 静謐でのんびりとした庭園とは対極にある、スリリングで容赦のない光景に言葉を失い、立ち尽くしてしまいました。

JRの線路の上に架けられている道幅の狭い陸橋「御殿山橋」は撮り鉄の穴場かも!?

しかしながら、キュビズムの滝(勝手に命名)のそばに佇むと滝浴みの効果でしょうか、絶えず吹きつける微風のおかげで涼しさが感じられ、その副産物なのか心のざわめきがどこかに吸い込まれていくよう。今はなき品川御殿に滝が設けられていたかは不明ですが、エアコンのない時代、高台の庭で滝の音や水しぶきを感じながら涼む将軍の姿を想像してしまいました。

江戸時代、御殿といえば御茶屋の別名で、その役目は茶会の会場や鷹狩りの休憩所、幕府の重要な会議、迎賓館などに用いられました。
歴代の将軍のなかで、品川御殿をこよなく愛したのは三代将軍の家光だと思われます。
家光は1633(寛永10)年に品川御殿(当時は仮御殿)で馬揃(閲兵式)を行い、同年、幕府の茶道顧問だった小堀遠州に命じて品川御殿を造営させています。海を見渡せる風光明媚な御殿山を家光は鷹狩の休憩所以外に政治的、軍事的な拠点として考えていたのかもしれません。
なお、しばしば品川御殿を訪れた家光は「島原・天草一揆」(1637年)の第一報をここで受け取っています。

庭園の深い木々のなかで埋もれるように佇むのは1992年に建てられた茶室「有時庵(うじあん)」。プリツカー賞を受賞した建築家・磯崎新の設計です。期間限定で公開される茶室は江戸時代、品川御殿の大茶会の歴史を伝えます。

期間中以外は立ち入ることができないが、外から眺めるだけでも静謐な空気感が伝わってくる

茶道の世界でも語り継がれている「御殿山大茶会(寛永の大茶会、品川大茶会とも)」は1640(寛永17)年、茶人であった長府藩主・毛利秀元が亭主を務めました。家光在世中、最大規模の茶会といわれます。
茶会の1ヶ月前に開催を伝えられた秀元はもともと家光と親しい間柄にありました。
彼は外様大名初の亭主として挑み、家光をはじめ、尾張・水戸の徳川家、徳川御三家に次ぐ家格の藩主や家光に重用された幕閣や外様大名筆頭格の藩主らをもてなし、成功に導いたのです。

本来、茶席は身分の上下がなく一堂に会すものですが、当日の座配は家光を三畳大目に、二方の相伴席に徳川一族、勝手の席に前田光高や酒井忠勝など御三家に次ぐ藩主、次の間に4名の外様大名筆頭格を配置しました。
この茶会の目的は、参勤交代を義務付けた家光が権力の頂点にいること、幕藩体制の確立を世に知らしめるものだったのかもしれません。

資料を紐解くと、当日は御殿から山の麓まで、饗応料理をのせた木具膳500人分が並べられたとか。朝から夜まで行われた茶会は、その会場が以後20日間にわたって庶民に公開されたそうです。

余談ですが、茶会を成功させた秀元はそれから10年後に甲斐守となり、麻布日ヶ窪の地を拝領し、上屋敷を作ります。(家光から茶会を成功させた褒美でしょうか?)その後、上屋敷は数人の所有者を経て、現在の六本木ヒルズの「毛利庭園」となります。

家光の栄華を極めた大茶会の舞台となった品川御殿ですが、彼の死後、1702(元禄15)年、四ツ谷太宗寺付近の出火により消失。再建されることはありませんでした。

御殿山は桜や紅葉狩りの名所として顔も持っていました。
葛飾北斎の絵にも満開の桜が咲く高台の向こうに東京湾、そして富士山が描かれています。奈良・吉野の桜を移植したのは四代将軍、家綱。吹上御庭のハゼは八代将軍・吉宗が移植。江戸指折りのレジャースポットとして江戸っ子たちで賑わったことでしょう。御殿山と東京湾の間には東海道が走り、沿道には延享年間(1744〜1748)に誕生したといわれる、大きな八百屋が軒を連ねた市場(青物横丁)や活気ある品川宿が広がり、きっと旨しものも多く、行楽弁当を広げる楽しみもあったのでは。

葛飾北斎《冨嶽三十六景 東海道品川御殿山ノ不二》東京富士美術館蔵 「東京富士美術館収蔵品データベース」収録 (https://www.fujibi.or.jp/collection/artwork/01170/)

浮世絵の題材にもなった名勝地が姿を変えたのは1853(嘉永6)年6月、ペリー率いる黒船が来航してから。
その2ヶ月後、品川沖に黒船防御のお台場を構築するため、御殿山の一部(約80万坪)が切り崩され始めます。やがて御殿山を描く絵には山肌が描かれるようになりました。海岸線に面した高台の崖っぷちを表した絵もあり、それはそれで風流なのですが、江戸幕府の終焉を暗示しているようで興味深いです。

画像左が歌川広重(初代)が1855年に描いた山肌の露出した御殿山。出典:国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」 (https://www.ndl.go.jp/landmarks/)

お昼時、御殿山トラストシティのオフィスに勤める人たちがキッチンカーで調達したお弁当とともに園内で過ごす光景が見られます。たっぷりとした木陰に身を置き、心身のエネルギーを満たすお弁当タイムに江戸時代の行楽客の姿と重ねてしまいます。
慣れ親しんだ空間から離れ、一時でも自然の懐に入った時の効能を人の本能はわかっているもの。時代は違えど人の営みは同じで、疲弊した心がじょじょに息を吹き返していくには天を仰ぐと空の色が見え、深い緑の木々が見下ろすように立つ合間から陽光がやわらかに漏れてくる場所に敵うものはないように思います。

キッチンカー『TexMexダイナー』の「野菜たっぷりのケイジャンチキンのサラダ」(900円)。清涼な空気の中で食べるお弁当のおいしさはひとしお

御殿山庭園はJR品川駅高輪口から徒歩約15分。
左側にJRや京浜急行線の電車の走行風景、右側には非公開の三菱開東閣(旧岩崎家高輪別邸)を眺めながら徒歩で行くこともできますが、品川駅と御殿山トラストシティを結ぶシャトルバスも運行されています。

INFORMATION

御殿山庭園
東京都品川区北品川4-7-35
https://www.trustcity-g.com/about/gotenyama_garden