「碑文谷八幡宮(ひもんやはちまんぐう」で、まず最初に驚くのはちょっと風変わりな参道。
一の鳥居をくぐると、民家と民家の間に築かれた”鰻の寝床”を思わせる砂利敷きの細い参道をひたすらまっすぐ進み、二の鳥居へ。
扁額に社名を刻む鳥居をくぐり抜け、右側に「碑(いしぶみ)小学校創立之地碑」や「日露戦役記念碑」などを眺めながら石段を上ると、ようやく三の鳥居に辿り着くことができます。
参道だけで約100mもある碑文谷の古刹。
最後の鳥居に佇み、周囲を見渡すと、そこに在るのはケヤキやシイ、クスノキなどが鬱蒼と生い茂る、大地の磁気を感じさせる豊かな自然です。
社殿は1674(延宝2)年に建てられ、明治時代に再建と改築が行われました。
入母屋作りの拝殿にお参りすると、向拝の意匠としては珍しい七福神、木鼻には流麗な龍が見られ、その緻密な彫刻に目を奪われます。
神社の方によると、こちらの向拝は八幡神と七福神に守られるよう願いを込め、江戸末期に作ったものだとか。また、同神社には勝海舟が筆をとった「額」や「のぼり」も伝わるそうです。
拝殿の右側には重忠の忠臣・榛沢六郎(はんざわろくろう)を祀った稲荷社と碑文谷の地名の起源といわれる梵字を刻んだ「碑文石」が保存されています。
稲荷社で睨みをきかせる狐の像は玉・子取り型で1923(大正12)年の建立。豊かな尻尾を巻き、縦のラインが強調されたスマートなデザインは畏怖の念を抱かせる存在感を放っています。
室町時代のものといわれる高さ約75cmの碑文石は「碑文谷」という地名の由来となったと伝わっています。この地の地名起源説は諸説あり「桧物屋(ひものや)」がなまって、碑文谷になったとも。桧物とは味噌漉しやふるい、柄杓などの曲物のことです。
碑文谷八幡宮一帯は中世の古道である鎌倉街道が通り、古くから開けていた地。
もしかしたらこのあたりには桧物師が暮らし、桧物座を形成していたのかもしれません。
目黒の郷土史を紐解くと、1591(天正19)年の寺領寄進状には「武蔵野国荏原郡桧物屋之内拾九石之事」と記され、江戸幕府3代将軍、徳川家光が行ったさまざまな出来事を緻密な筆で描いた「江戸図屏風」にも「桧物屋法花寺(現在の円融寺といわれる)」や「桧物屋御鞭打(騎馬戦の意味)」と書かれ、桧物屋が正式な地名だったのではと考える向きもあります。
碑文を彫った石のある里(谷)という説、桧物屋から転じて碑文谷となった説。
どちらが正しいのか定かではありません。しかし、わからないということは歴史のロマンをかき立ててくれるもの。解明という言葉の対極にある、想像や妄想が心に翼を広げてくれます。
「手つかずの自然」と表現したくなる、武蔵野の面影を残す広漠な境内では枝葉をたっぷり伸ばした大木の群れに圧倒されます。まさに「鎮守の森」。土地が開発され、都市化が進んでも日本には多くの神社仏閣に、規模はともかく森が残されています。碑文谷八幡宮の鎮守の森も土地の人々の心を鎮める場であり、集いの場であり、災害の時は逃げ場所になったことでしょう。
余談ですが、「チンジュノモリ」は植物生態学者の故宮脇昭さんが国際植生学会(The International Association for Vegetation Science)で用いたことから、同学会では名詞として使われています。
人間の年齢をはるかに上回る樹齢の高い樹木の側に身を寄せると「生きるのには首から上は必要ないんだよ」と、アタマばかりフル回転させる人間にメッセージを送ってくれるよう。
境内では鎮守の森の懐に抱かれるのもよいし、新旧2つの狛犬(三の鳥居の脇で神域を守る明治時代の狛犬、拝殿前の平成時代に寄進された狛犬)を見比べたり、手水舎横の手押しポンプを体験(ちゃんと地下水が出ます!)するのもよいでしょう。
八幡宮を後にして向かったのは、環七を越えた大岡山にある蕎麦屋「志波田(しばた) 本店」。
蕎麦はうどんと並び、長い形状から縁を結ぶ食べものといわれます。創建の古い碑文谷八幡宮と長い縁を結ぶという験かつぎのため、八幡宮から徒歩約10分のこちらにうかがったわけですが、古き良き趣を伝える店構えの暖簾をくぐると、ひっきりなしに幅広い年齢層のお客さまが訪れる、なかなかの人気店でした。
このお店では令和の今となってはほとんど見かけることのない、味のある薄紙で作られた会計伝票に女将さんが1つ1つ注文の品を縦書きされ、その仕事を見る楽しみもあります。碑文谷八幡宮を参拝した後は自家製の喉ごしの良い麺と旨みたっぷりの麺つゆを用いた蕎麦を堪能してはいかがでしょうか。
INFORMATION
碑文谷八幡宮
東京都目黒区碑文谷3-7-3
03-3717-6412
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/meguro/5205/