江戸時代、庶民の間で流行した旅先といえば伊勢神宮でした。
「一生に一度のお伊勢参り、おかげ参り」といわれたほど、伊勢は憧憬の地。
伊勢への旅人は東海道の品川宿を通る時、令和の今も現存するお地蔵さんに手を合わせるのが習わしでした。行きは道中の無事を祈願、帰りは無難に帰って来れたことに感謝を捧げるために。

江戸六地蔵第一番の「品川(ほんそん)寺」。
かつては東海道だった青物横丁商店街を見守るように鎮座する座高2.75mの「銅造地蔵菩薩坐像」は1708(宝永5)年、江戸深川の僧だった地蔵坊正元(しょうげん)が建立したもの。正元は25歳の時、自分の危篤状態を脱した報恩として、江戸に入る6つの街道口に一体ずつ地蔵菩薩を建造しました。

お地蔵さまにより近くからお参りしたい時は向かって左側に階段が用意されている

体に比べてちょっと頭部が大きく感じるお地蔵さまは、300年以上の暦を超えて今も当たり前に見ることができる日本の宝。東海道を通る旅人のなかには私が立つ位置から祈りを捧げた人もいただろう……そう思うと背筋がピンとなり、先人が残してくれた祈りの遺産をありがたく感じずにはいられません。

東海道口のお地蔵さまが品川寺に置かれたのは、ここが品川最古の寺であり、品川宿のちょうど南端にあることから人の往来が盛んだったからでしょうか。

真言宗醍醐派別格本山品川寺は平安時代初期、大同年間(806~810年)の開創。
弘法大師空海が東国巡錫(じゅんしゃく)の際、この地に錫を留め、領主の品河氏に水月(すいげつ)観音を授けたことが始まりと伝えられます。

1652(承応元)年、権大僧都弘尊法印によって再興され、京都の醍醐寺の末寺となったこのお寺は、数奇な運命を辿った大梵鐘の話がよく知られています。

大梵鐘は徳川三代の将軍、家康・秀忠・家光を供養するため、四代将軍・徳川家綱が寄進したもの。梵鐘には徳川三代の将軍の法名の他、六体の観音像の彫刻が陽刻され、観音経一巻が陰刻されています。

数奇な運命を辿った洋行帰りの梵鐘と門前の地蔵菩薩は「品川百景」に選ばれている

将軍家にゆかりある荘厳な梵鐘の運命の舵が切られたのは1867(慶応3)年。
パリで開催された万国博覧会に出品されましたが、その後、長い間行方不明に。品川寺の住職が探しものの広告を出したこともあり、ヨーロッパに留学していた日本人によって発見されたのは1919(大正8)年のこと。スイス・ジュネーヴにある「アリアナ美術館」にあることがわかりました。教会の鐘にするべく鋳造所で鋳つぶすところをジュネーヴの名士が購入し、美術館に展示していたそうです。

洋行帰りの梵鐘となるべく、返還に奔走した品川ゆかりの政治家がいました。

(前略)返還に日本政府代表として尽力された当時の方は、現在の総理大臣である小泉純一郎氏の祖父であり、逓信大臣となっていた小泉又次郎氏です。小泉又次郎氏は元は鳶職(丸太で作る一本足場作りは有名でした)であったため身体に総入墨があり、入墨判官足場の又さんといわれて品川では有名でした。逓信大臣の又さんは、当時品川寺の山門の海辺、向地の房州鋸山が一望に見える「腰之湯」の海側の屋敷に居住して、そこから国会に通っていました。(後略)

『品川のまちに生きてー長老が語るまちの記憶ー』「品川寺」(吉田鎮雄著、2005年5月25日発行、
『品川のまちに生きて』刊行委員会刊行)より引用

大梵鐘は1930(昭和5)年にジュネーヴより贈還。
60年以上ぶりに帰国した梵鐘は牛車に引かれて故郷の品川寺へ。この時、一目でも帰還を見届けようと多くの人たちが沿道に集まりました。

「品川寺梵鐘の帰還」1930(昭和5)年5月5日撮影 品川区立品川歴史館提供

その後、品川寺は同じデザインの大梵鐘を鋳造し、1990(平成2)年にアリアナ美術館に贈呈したそうです。
品川区はこのご縁から「品川区ジュネーヴ市友好都市」締結を提唱。青物横丁商店街を交差する道路は「ジュネーヴ平和通り」となりました。現在、境内の梵鐘の前には「ジュネーヴ平和通り命名記念碑」の石碑が建てられています。

大梵鐘が品川区とジュネーヴ市とのご縁を結んで名付けられた「ジュネーヴ平和通り」

境内でひときわ目を引くのが薬師堂のそばに立つ、高さ約25mのイチョウ。
幹から乳根がいくつも垂れた様が約600年といわれる樹齢を感じさせます。

この日、乳根がいくつも垂れ下がるイチョウを写真を収める人が何人もお寺を訪れた

本堂の左右には小さな梵鐘が2つ吊り下げられています。
本堂に向かって右側にあるのが「仁慈(いつくし)の鐘」。これは戦争裁判殉国者慰霊の碑で、東條英機をはじめとする7人の遺墨が揮毫されています。
もう1つは「まことの鐘」で、大東亜戦争に学徒出陣して帰ることのなかった魂を鎮魂するものです。

英文も刻まれているモダンなデザインの「まことの鐘」

朱色の扉や柱が鮮やかな本堂は仄暗く、厳かな雰囲気。
ご本尊の水月観音と聖観音、東海道七福神の毘沙門天など、たくさんの仏像が安置されています。秘仏の水月観音は厨子のなかですが、興味のある方は靴を脱いでお堂に上がることができます。

大梵鐘を囲む台座を造る岩場の周囲に祀られているのは七福神の石像。
このお寺が東海七福神の毘沙門天をお祀りしていることに由来しているのでしょうか。どの神さまも愛嬌のある表情。

境内の奥まった場所にひっそり建つのは弁天堂。
琵琶ではなく武器を持つ八臂(はっぴ)弁財天は慈悲深いお顔が心に残ります。像の前に安置された白蛇像とともにきっとこのお寺の守護神なのでしょう。

大梵鐘の奥に建てられている弁天堂は弁財天と白蛇が祀られた祈りの空間

弁天堂の近くには真言宗を開いた空海の像なども。修行大師こと空海像の横に植えられている花梨は空海の故郷、香川県満濃町の町木で、現地の花梨の種を譲り受け、育てたものだそう。取材に訪れた時は実を付けはじめていました。

境内では甘い香りを放つクチナシが見頃を迎えていた

乳根のあるイチョウと同じくらい、境内で目を奪われたのはガレージの上の「英霊堂」。
観音様の前には軍鳩が背に乗った軍馬、軍犬が並んでいます。
お寺の方によると、いつかはガレージから地上に移すことを考えているそうです。

車庫の上という意表をつく場所に安置されている観音様や馬、鳩、犬の像は動物供養のためのもの

平安時代初期に創建された品川寺はNHK大河ドラマ『光る君へ』の主人公・紫式部が生きた時代(平安時代中期)よりもずっと古く、当時は空海や最澄をはじめとする遣唐使が唐へ派遣されていました。それからミレニアム(1000年)という分厚いページをめくった後にやって来た江戸時代には、地蔵菩薩が鎮座するお寺の前に東海道が走り、八百屋が軒を連ねる青物市場や品川宿を訪れる人々が集まり、大きな賑わいを見せるように。それから4つの元号を経て、令和の現在にいたります。

果てしなく永い暦を携えている品川寺。
境内ではこの古刹を崇敬する人々の想いが宿ったさまざまなものが眺められ、同時に想像する機会が与えられます。現代を生きる人間と気の遠くなるような時間を経てきたものとの対話は、慌ただしい日々に戻ると忘れてしまうかもしれません。が、いつかその人のなかで熟し、心に何かを形づくる日がやって来るような気がします。

information

品川寺
東京都品川区南品川3-5-17
03-3473-3495
http://honsenji.net