落語「目黒のサンマ」では、目黒の1軒の茶屋を訪れた将軍が、あり合わせで出された焼きサンマの味が忘れられず、城内で家臣にサンマを出すよう命じます。房州で獲れた新鮮なサンマが御膳係によって調理されたものの、頭も骨も脂もなく変わり果てたサンマの姿を見た将軍は「サンマは目黒に限る」と言うのがオチ。
海のない目黒で出された庶民の味は将軍の胃袋をしっかりつかんでしまったのでしょう。
目黒のサンマが生まれた背景にあるのは徳川将軍家の「鷹狩り」です。
鷹狩りとは飼い慣らした鷹を野に放って野鳥や小動物を捕える狩猟法で、その始まりは6世紀頃にさかのぼります。
意外にも戦国時代も鷹狩りは人気のレジャーで「敵情視察」という名のもと、武将たちの間でしばしば行われていたそう。
鷹狩りの場を政治的、軍事的拠点にしたのは徳川家康で、1590年に関東に入ると領国を固めていくために鷹狩りを活用しました。ちなみに家康は生涯、1000回以上の遊猟に出向いたほど鷹狩りを好んだ人物でした。
江戸から近い目黒は未開の地が多く、鳥の生息地に適したことから代々の徳川将軍家は鷹狩りに訪れました。
さて、目黒の松林の脇にぽつんと建っていた「一軒茶屋」は将軍家が遊猟に訪れた際、しばしば休憩に立ち寄った場所。将軍家光や吉宗も松林の脇に腰を下ろしたといわれています。将軍はお店の主人の人柄を愛し「爺、爺」と呼んだことから茶屋の別名は「爺々ヶ茶屋」に。歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれています。
その爺々ヶ茶屋があったといわれるのが目黒区三田にある茶屋坂。
坂の途中には清水が湧き、茶屋でもその水が重宝されたのかもしれません。
現在は湧き水はなく案内板がその歴史を伝えるだけですが、昭和初期には水がちょろちょろと湧き出ていて、沢ガニの姿も見られたそうです。
茶屋坂は目黒の「行人坂」同様、急な勾配のある坂。
目黒川沿いに建つ目黒清掃工場を背にして上がっていくと、閑静な住宅街の傾斜地に延びる坂は道幅も狭く、広重が筆をとった頃はくねくねした険しい山坂だったのではと想像します。
茶屋が坂のどのあたりにあったのかは不明ですが、家光、吉宗ゆかりの茶屋ということで将軍家が放鷹で目黒に行くと爺々ヶ茶屋に立ち寄ることが慣例に。茶屋を経営していた方の子孫のもとには「将軍が田楽を何串食べて、いくらだった」という書付が残っているそうです。
将軍は茶屋の人々と交流することで庶民の暮らしがわかるので、それも鷹狩りの楽しみの1つだったのではないでしょうか。それがやがて「目黒のサンマ」の話に発展したのかもしれませんね。
隠れ坂のような茶屋坂に対して、勾配がゆるやかな長い坂道は「新茶屋坂」。
車輌の往来が多い、この坂の途中にはかつて「茶屋坂隧道(ずいどう)」といわれるコンクリート造りのトンネルがあり、その上には300年以上に渡って三田用水(世田谷区北沢から目黒区三田方面を経て白金猿町に流れていた用水路)が1974(昭和49)年に廃止されるまで流れていました。
三田用水は暗渠化され、用水の下を開削されて造られたトンネルも姿を消しましたが、急坂の茶屋坂は今も健在。鷹狩りで目黒を訪れていた将軍家の歴史を偲ぶスポットといえるでしょう。
さて、目黒のサンマ発祥の地、目黒区では毎年「目黒のさんま祭り」を開催(2023年は10月8日)。無料でふるまわれる焼きサンマを目当てに多くの人で賑わいます(焼きさんま券当選者のみ)。
茶屋坂近くでサンマを食したいという方は「目黒のさんま 菜の花 茶屋坂店」へ。
ランチタイムから三陸で獲れたサンマを塩焼き、かば焼きなどで楽しめます。
「目黒の本物はタケノコ、代物はサンマ」といわれますが、あのジュウジュウと芳ばしく焼かれたサンマは代物とはいえ、無性に食べたくなります。秋の味覚に踊る心、ですね。