「東京の不動明王」といえば、多くの人から名前が上がるのが「目黒不動」こと「泰叡山 瀧泉寺(たいえいざん りゅうせんじ)」。
ご本尊である不動明王こと「お不動さん」は仏像界のなかでもコワモテで知られ、その憤怒の表情は一度見たら忘れられません。しかも手には剣と縄、背には煩悩を焼き尽くすといわれる炎を携えて。睨みもキョーレツで一瞬にして魂が凍りついてしまいそうです。
実は、お不動さんは宇宙そのものを表した「大日如来」の化身。ですが、人々を教え諭すために、あえてこのような厳しい形相となったとか。
目黒不動は関東最古の不動霊場であり、木原不動(熊本)、成田山不動(千葉)と共に「日本三大不動」の1つ。そして天下太平の願いと江戸を守護するために安置された目白不動、目赤不動、目黄不動、目青不動も属する「江戸五色不動」の1つにも数えられます。
開創は808年で、開山したのは慈覚大師(円仁)。
ご本尊である不動明王像は、慈覚大師の作といわれます。
こんな話が伝わっています。
慈覚大師が持っていた仏具「独鈷」を投じたところ、泉が湧き出したそう。その場所は「独鈷の瀧(とっこのたき)」と呼ばれ、現在も境内で豊富な水を讃えています。この滝場では江戸幕末に活躍した西郷隆盛が病に倒れた薩摩藩主・島津斉彬の健康回復を祈願するため、水垢離(みずごり)をしています。
「男坂」と呼ばれる石段を上がった高台に建つのは風格のある大本堂。
現在の社殿は昭和の頃に再建されたものですが、江戸時代には三代将軍徳川家光により「目黒御殿」の名で親しまれた「堂塔伽藍(どうとうがらん)」が造営されたほど、江戸城の裏鬼門を守護するお寺として幕府から手厚い保護を受けた風格を感じさせます。
広々とした本堂の裏手に鎮座するのは大日如来像。不動明王は大日如来の分身なので二体一心の意味を感じさせます。
さて、目黒不動には江戸に暮らす人々を飢饉から救った人物が眠っています。
「甘薯(かんしょ)先生」こと青木昆陽(あおきこんよう)です。
甘薯とはサツマイモのことで、中央アメリカが原産。
17世紀に琉球や薩摩で栽培が始まりましたが、江戸に入ってくるのはそれから約100年後のことでした。
昆陽は全国で1万人が餓死した「享保の大飢饉」下、やせ枯れた土地でも栽培が可能で長期保存もできる栄養価の高いサツマイモが非常食になることを『蕃藷考(ばんしょこう)』(1735年)にまとめました。
その書籍に感銘を受けた8代将軍徳川吉宗は飢餓対策として関東での栽培を推奨。
吉宗の命を受けた昆陽は早速、種芋を取り寄せて小石川御薬園で試作を始めました。
収穫した芋は種芋となり、甘藷栽培の定着は成功。サツマイモはその後、天明、天保と続く大飢饉の際も救荒作物として多くの人を飢えから救ったそうです。
その後、甘藷栽培の功績が認められた昆陽は幕府の書物奉行に任じられ、蘭学(オランダ語による西洋の学術を研究する学問)を学びます。蘭学者となった昆陽の弟子は杉田玄白、中川淳庵らとともに『解体新書』を翻訳した前野良沢。
「甘薯先生」と親しまれている昆陽のお墓があるのは前述した大日如来坐像が鎮座する境内の裏手。山手通りに下る階段坂の手前にある小さな丘にある墓地です。「甘藷先生墓」の文字は1769 年10 月、72 歳で帰星した昆陽が生前に自ら刻んだもの。また、独鈷の瀧の脇には2基の大きな顕彰碑が建っています。
さて、目黒不動では毎年10月28日に「甘薯祭り」を開催。
戦前は昆陽の命日である10月12日に行っていましたが、戦後から不動明王の御縁日である28日に開くようになりました。
2024年の甘藷祭り当日は朝から雨天。
しかし、天は人々の想いを汲んでくれたのでしょう、午後からはち
曇り空の下、男坂の前には「甘薯祭り」の幕が掲げられ、さまざま
令和の今や、スイーツ界の定番キャストにして主役級の座にいるサツマイモ。
甘藷先生もきっと目を細めてお喜びではないでしょうか。
information
泰叡山瀧泉寺(目黒不動)
目黒区下目黒三丁目20番26号
03-3712-7549
https://megurofudo.jp