「洋館」という漢字と言葉にノスタルジックな想いを抱く人もいることでしょう。
日本の住宅にはない異国情緒あふれる佇まいはイマジネーションをそっと掻き立てる、えも言われぬ不思議なエッセンスを漂わせています。

日本に洋館が造られ始めたのは明治初頭。
その背景には明治政府による欧米諸国と同レベルの文化ー西洋風の近代的な建築や服装、生活習慣などーを取り入れ、日本が文明国であることを誇示するという思惑がありました。

東京・城南地区でかつては「個人の邸宅では東洋一」と絶賛され、訪れる人々に眼福をもたらす洋館があります。
目黒区立駒場公園にある「旧前田家本邸」です。
加賀藩主・前田家の第16代当主だった前田利為(まえだとしなり)公爵の邸宅として1929(昭和4)年に竣工されました。

張り出した玄関ポーチは車寄せとして、国内外の要人を迎え入れた

もともと前田侯爵邸は本郷に10万坪の上屋敷を構えていましたが、隣接する東京帝国大学の敷地拡張に伴い、駒場にあった東京帝国大学農学部実習地4万坪の土地と等価交換。広大な田園地帯に1万3000坪の洋館と和館、馬場、テニスコート、園芸場などが造営されました。

ドイツ、イギリスに留学し、昭和初期に駐英大使館付陸軍武官を務めたこともある、国際的な視野をもつ文化人でもあった前田侯は欧米での生活が長く、外国の要人とのお付き合いには迎賓館の機能がある邸宅の必要性を痛感していました。
迎賓館とはいえ、日本らしい木造書院造りの建物ではなく、欧米に引けを取らない洋風の建物を…と望んだことから、この洋館の設計が始まったのです。

前田家の車庫があった場所には当時の姿を模した公衆トイレが。所有車もデザインされている

英国の貴族が田園地帯に住まう際に採用した「イギリス・チューダー様式」を取り入れた邸宅は建築面積987.25㎡。3階建て・地下1階の建物の設計は帝大の塚本靖教授と宮内省内匠(たくみ)寮の高橋禎太郎氏(赤坂離宮や秩父宮邸も設計)が手がけ、竹中組(現在の竹中工務店)が施工を担当しました。

スクラッチタイルを外壁に丹念に貼り付けた欧州と日本の美の結晶といえる大邸宅に入ってみましょう。(入場無料)

諸外国の要人も訪れ、華々しい社交場だった1階

欧州のお城を彷彿とさせる、風格ある玄関ポーチから中へ。
視界を占める赤絨毯が敷かれた天井の高いクラシカルなホールはこの邸宅が現役だった時代にいざなう顔役的な存在感。
通路の役割も担っていた、広々とした格調高いこの空間は訪れる諸外国の要人たちをも一驚させたことでしょう。

1階はホール、サロン、26人が一堂に会食できる大食堂、家族が使う小食堂、応接間、表(男性使用人の執務室)などで構成されていました。国際的な社交の場でもあった豪奢な邸に仕えた使用人は136人だったとか。

白大理石のマントルピースが中央に据えられた「大食堂」は晩餐会のためのもの。
マントルピースの周囲は古典的な模様の金唐紙で覆われています。

「小食堂」に隣接する「大食堂」は年末年始だけ、一家が利用。中央の暖炉が室内を暖めたことだろう

ちなみに邸宅の内装は王朝風バロックを思わせる室内装飾に加えて、加賀藩の系譜を受け継ぐ武家の名残として唐草や雛菊の模様の壁絹が使用された他、加賀藩ゆかりの古九谷、象嵌、金箔などを用いた調度品の数々が置かれていたそうです。

洋風のお洒落なシャンデリアもよく見ると唐草模様になっている

普段、家族は小食堂を使っていましたが、大晦日とお正月三ヶ日だけは大食堂で祝宴を開いたそうです。
当主・前田利為の長女で、この邸宅で育ったマナー評論家、故酒井美意子さんの著書を紐解くと、年末年始は家族全員正装して大食堂に集ったそうです。大晦日の晩餐はツグミの吸い物、かずのこ、ふなの甘露煮、福茶、年越しそばなどが料理長によってふるまわれ、1月3日の晩餐まで同じ献立は出なかったとか。

「小食堂」の壁にはエレベーターが取り付けられており、地下の厨房から食事が運ばれてくる仕組みとなっている

「いい階段はいい建物を生む」といわれるように、1階と2階を結ぶ折れ曲がった階段はこの洋館の印象を決定づける重要な役目を担っています。
和の様式で建てられた住宅であれば、従来の真っ直ぐな階段だったでしょうが、明治期に西洋建築が日本に入ってきたおかげで踊り場付きの折れ曲がった階段が日本でも採用されるようになりました。

ステンドグラスをはめ込んだ窓からは自然光が後光のように射し込み、階段を聖なる存在に演出。重厚な手すりには職人による緻密な浮き彫りが施されています。
また、階下に設けられた小空間は「イングルヌック」と呼ばれる、暖炉と造り付けのベンチが備わったくつろぎの間。

当主の書斎や家族の居室に使われた2階のプライベート空間

2階は当主の書斎をはじめ、家族の居室、夫妻の寝室、納戸、奥(女性使用人の私室)などで構成されています。

ところで、コロナ禍の影響で在宅ワークも珍しいことではなくなりました。
「この豪華絢爛な邸宅内で仕事をするならどこで?」などと想像するのもリアルな感情が生まれ、洋館内部の鑑賞をより楽しくさせてくれます。

ちなみに「在宅ワークをぜひここで!」と胸の内で所望したのは前田利為候の「書斎」。
広くて重厚な机にPCを置き、龍の意匠がなされたマントルピースで暖をとり(ZOOMの背景にも映えそう)、時折若草色のソファに座って資料に目を通したり思索にふける…。なんと優雅なのでしょう。

奥には穏やかな微笑みを浮かべた菊子夫人の肖像画も。この部屋で仕事をする利為候が目に浮かぶようだ

2階で最も華麗なお部屋が「夫人室」。
前田侯菊子夫人の居室で、パープルを基調にしたロココ調の内装はエレガントの極みといえます。こちらは家族団欒の場でもありました。

着物をこよなく愛した菊子夫人が着物を注文する際はこの部屋に花ゴザを敷いて反物や色見本などを置き、呉服屋さんに欲する染めや意匠の説明をしたそうです。

各国の要人とのパーティーに招かれたり、招いたりする立場にあった夫人は外国の風物に精通し、着物に表すことに熱心な美意識の高い方だったとか。
自国の風物が表現された着物にふれた外国の方々は大変感激したはずです。
きっと、着物姿の菊子夫人は諸外国との外交に一役買ったのではないでしょうか。

プライベート空間の2階は家族の居室が多く、部屋ごとに異なる照明やカーテン、壁紙などに公爵家の美意識がちりばめられています。

華々しい社交の場でもあった豪邸で目と心をたっぷり潤した後はぜひ、緑豊かな庭園へ。
現在は公園として整備されていますが、かつては前田公爵一家がスキーやテニスを楽しんだ場でもありました。心に沁み入りそうな木々の緑にくつろぎながら流麗な邸宅の外観を鑑賞するのもよいでしょう。

ボルネオで戦死した前田候がこの館に暮らしたのは約10年。戦後はGHQに接収され、現在は目黒区立駒場公園として管理

参考文献
『お姫さまエッセイ 昭和マイラヴ 思い出すことの多き日々かな』(酒井美意子著 清流出版)

INFORMATION

旧前田家本邸洋館
東京都目黒区駒場4-3-5 駒場公園内
TEL 03-3466-5150
https://www.syougai.metro.tokyo.lg.jp/sesaku/maedatei.html