目黒不動近くのどこか懐かしい空気が漂う不動前商店街。
軒を連ねる店々の間に、ふと足を止める場所があります。飄々とした表情の「タコ」がこちらを見ているよう…。


「蛸薬師(たこやくし)」こと成就院(じょうじゅいん)。
昭和のムードがたなびく商店街に歴史を刻んできた古刹は目黒不動に比べると参拝者は少ないのですが、開山したのは目黒不動を開いた平安時代初期に活躍した高僧、円仁(慈覚大師)。
中国・唐で仏教を学び、日本に多くの教えをもたらした人物は歴代の将軍や西郷隆盛も参拝した目黒不動だけでなく、その近くにも足跡を残していたとは。

このお寺は徳川家とも深い関わりがあり、それは江戸時代、徳川二代将軍秀忠の側室であったお静の方が深く帰依していたことにあります。

お静の方は秀忠との間に生まれた子(後の保科正之)の出産と成長、そして出世を願って、成就院に薬師如来をはじめとする仏像を奉納したそうです。
彼女の報恩は時を超え、現在も目にすることができます。
それが、本堂の脇に佇む「お静地蔵」として知られる石仏群。願いが込められた仏像はお静の方の厚い信仰心を表し、今も静かに私たちを見守っています。

そして、三代将軍である徳川家光もこのお寺に関わっています。
ある時、家光が目黒での鷹狩りの途中に成就院に立ち寄った時のこと。当時の住職と話していると、自分の異母弟にあたる保科正之の存在と境遇を知ったそうです。家光は正之が秀忠の血を受け継ぎながらも、秀忠の正室の目を気にして、その存在が公にされていなかったことに心を痛めたと言われています。
この出来事を機に家光は保科正之を重用するようになります。
これは単に血縁だからというだけでなく、家光が持つ人情味あふれる一面、そして人を大切にする姿勢が強く表れたエピソードのように思います。

実際、家光は人柄を重んじる場面がありました。
「御殿山」の記事でも触れていますが、1640年(寛永17年)に開催された「御殿山大茶会」は、三代将軍徳川家光の在世中、最大規模の茶会でした。この茶会で亭主を務めたのは長府藩主・毛利秀元。外様大名としては初めての亭主役を任された秀元は、その10年後に甲斐守(かいのかみ)に任じられ、麻布日ヶ窪の地(現在の六本木ヒルズ「毛利庭園」)を拝領し、上屋敷を構えました。これは、家光の信頼の証といえるでしょう。
保科正之は後に信州高遠藩主、山形藩主、さらには会津松平家の祖となる会津藩主として、幕政に深く関わることになるほか、家光の死後には四代将軍家綱の後見人を務めるなど、幕府の要職を担ったそうです。



ところで、日本に複数ある蛸薬師ですが、その名は「タコ(腫れ物)」に霊験あらたかであることから名付けられたようです。
日本人とタコの関わりですが、縄文時代には既にタコ壺漁が行われていたといわれ、江戸時代にもタコは庶民にとって身近な食材で、刺身や煮ダコなどが親しまれていました。
また、古くから私たちの日常に身近な存在である一方で、縁起物としても大切にされてきました。
その最たる例は、「タコ」という発音が「多幸(たこう)」に通じるという語呂合わせです。多くの幸せという意味を含む言葉の響きから、福を招く縁起の良い生き物として捉えられてきました。

さらに、タコの吸盤が何かに「吸い付く」「根付く」といった特性も、縁起の良い意味合いに結びつけられました。例えば、病気に吸い付いて取り除く、あるいは仕事や物事がしっかりと根付く、といった願いが込められることもあります。また、タコの足が8本であることから「末広がり」として縁起が担がれることも知られています。8は縁起の良い数字ともいわれています。だからでしょうか、多くのタコ焼きが8コ入りなのは。

蛸薬師の境内に佇んでいると、タコがデザインされた絵馬が時折、風に吹かれてカラカラカラと優しい音を立てて鳴り響きます。

その音はどこか懐かしく、小さな境内に情緒をもたらします。タコが持つ「多幸」や「末広がり」の願いが、風に乗って届きますように。そんな穏やかな気持ちにさせてくれるひとときです。

不動前商店街の片隅で、ひっそりと時を重ねる蛸薬師。
面白いもので、お寺のお隣りや向かい側にはエビ、オコゼといった海の生き物の名前を付けたお店が見られます。
また以前、水引の箸置きをレクチャーいただいた「東京水引」も蛸薬師のすぐそば。水引は古くからご縁を結び、お祝いの気持ちを伝える日本の伝統文化。タコの「多幸」や「末広がり」といった縁起の良い意味に加え、この商店街全体が人々の良縁や幸せを願う「縁起物」で満たされているように感じます。
information

蛸薬師(成就院)
東京都目黒区下目黒3-11-11
03-3712-8942
http://www.jyoujyuin.jp