今回訪れたのは、青物横丁の洋食屋。
その前に。今回の取材には前日譚があります。
青物横丁の洋食屋を提案したのはM嬢。彼女の心の奥には、新田神社取材の際に訪れた武蔵新田の洋食屋「キッチン知以富(ちいふ)」での感動体験が色濃く残っていたのかもしれません。
そのお店はカウンター6席のみ。シェフおひとりが切り盛りする様子をカウンター越しに固唾を飲んで見守っていると、フライパンには惜しみなくバターが滑り込み、立ちのぼる香りと調理する音だけで心と胃袋は高揚。そうして目の前に置かれた料理はまさに“街の洋食屋”の真髄ともいえる味わいでした。以来、知以富の話題は折にふれてのぼるように。
きっと、M嬢の中には「城南エリアの街角には、まだこうした名店が眠っているのではないか」という思いが残っていたのでしょう。その延長線上で辿り着いたのが、今回の青物横丁の洋食屋というわけです。
京急線の「青物横丁」駅から旧東海道の面影を残す商店街をしばらく歩くとレストラン「ティンカーベル」のエメラルドブルーの看板に赤と白のストライプの庇が目に飛び込んできます。
江戸時代、青果市場として栄えたこの通りは庶民の暮らしとともに歩んできた歴史ある街道筋。当時の賑わいを今に伝えるかのように、この洋食屋には毎日、開店前から人が集まります。

11時の開店前にはすでに扉の前に行列ができ、11時30分を過ぎると店内は満席。
それでも外で待つ人の姿が途絶えません。お店に引き寄せられるのは地元の常連客のみならず、評判を聞きつけて足を運んだ人たちも少なくありません。

奥に細長い造りの店内に入ると、黒褐色の木を用いた内装が目に馴染む、落ち着いた空間が広がります。
白いテーブルクロスがテーブルに整然と敷かれ、通りに面した窓から差し込む自然光がやわらかく店内を照らす様子は、お店が刻んできた時間の深みを感じさせるよう。その中で白いブラウスに黒のジャンパースカートという装いのホールスタッフの女性たちがきびきびと立ち働く姿は、昔ながらの洋食屋が持つ凛とした品格を今に伝えているようでもあり、店の空気に心地よい緊張感を添えます。
ランチに選んだのは「ローストビーフとカニクリームコロッケ」(1,200円)と「スペシャルオムライス」(1,200円)。
まずテーブルに運ばれてくるのはコーンポタージュで、濃厚でコクが深く、甘さは控えめ。クルトンの代わりにクラッカーが浮かび、これがスープのとろみと絶妙に絡み合います。

ローストビーフは、お皿いっぱいにたっぷりとかけられた自家製グレイビーソースが印象的。
ソースをまとった薄切りの牛肉はしっとりやわらかく、口に運ぶと肉の旨みとともに醤油を芯に据えた奥行きのある味わいがじわりと広がっていきます。

バターやフォンのコクを感じさせながらも、どこか白いご飯が恋しくなるような親しみやすさがあるのは、やはり私たちに和の感覚が溶け込んでいるからでしょうか。西洋料理が日本人の舌に寄り添うかたちで育まれた洋食文化の多彩さを感じさせる一皿でした。
一方、日本の洋食の代表格ともいえるオムライスは、こんもりとしたおなじみのかたちが愛らしい存在感を放ちます。厚めに焼き上げられた卵焼きの中には、ケチャップライスがぎっしり。スプーンを入れると、卵のやさしい香りとともに湯気が立ちのぼり、口に運べばケチャップの甘みと酸味が絶妙なバランスで広がります。

フワフワトロトロの卵をまとった最近のオムライスとは異なり、しっかり焼かれた卵で包まれた、お店の味は往年の洋食ならではの矜持を感じさせるもの。
それは一口頬張るごとに、子どもの頃にデパートの食堂で胸を弾ませた記憶や家の食卓の風景まで呼び覚まし、懐かしさが込み上げてくるようです。心をあたためられる人も多いのではないでしょうか。

ランチを終え、お店を出た頃もなお、入口には順番を待つ人たちの姿がありました。
ふと振り返ると「tinkerbell」と記された看板には「味の妖精の館」の文字が見えます。
味の妖精とは、いったい何者なのでしょう。
物語『ピーター・パン』に登場するティンカー・ベルは、魔法の粉をふりかけて子どもたちを空へ連れ出す妖精として知られています。しかし、この店のティンカー・ベルは少し役目が違うようです。
長年使い込まれた鍋やフライパン、磨き込まれた包丁や調理道具にそっと魔法をかけ、テーブルに笑顔を届けるー。そんな味の妖精が厨房のどこかに潜んでいるからこそ、この店には今日も多くの人が引き寄せられるのかもしれません。

INFORMATION

ティンカーベル
東京都品川区南品川2-17-27
03-3458-9424
https://aoyoko.jp/tinkerbell/
