城南地区にある、水辺の景勝地「洗足池」。古くは「千束」の文字が使われていましたが、1282年に日蓮が池上本門寺に向かう途中、この地で休息し、足を洗ったことから「洗足」になったそうです。
日蓮同様、池上本門寺を訪ねる際に洗足池で休憩したのが江戸から明治期に生きた英傑・勝海舟。1868年、海舟が46歳の時のことです。1867年、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が政権を天皇に返上する「大政奉還」を行った翌年、海舟は幕府の代表として江戸城の明け渡しについて話し合うため、新政府軍の本陣がおかれた池上本門寺へと向かう途中、この辺りで休んだと伝えられています。江戸が、そして日本が変わる緊迫感ある会談を控えた海舟の眼に洗足池周辺の風景はどのように映ったのでしょうか。
西郷隆盛との交渉で江戸無血開城を果たし、それから23年を経た1891年(明治24年)。69歳の海舟が隠居生活を送るために別荘を構えたのが、ここ洗足池でした。「洗足軒」と名付けられた別荘は広い敷地の一角に建てられた農家の素朴な民家を思わせる建物。海舟の本宅は赤坂氷川町(港区)にありましたが、洗足軒は思索にふける格好の場所だったのかもしれません。
ちなみに洗足軒の土地は農学者の津田仙(津田塾大学の創始者、津田梅子の父親)を介して入手したそうです。残念ながらこの洗足軒は火災に遭い、消失しましたが、現在の大田区立大森第六中学校に存在していました。
江戸幕府に仕え、明治維新後も旧幕臣として徳川家を支えつつ、政府からも頼りにされた勝海舟。彼の一生を知りたい方は「大田区立勝海舟記念館」を訪ねてはいかがでしょうか。
この記念館は1928年に海舟関連の図書を集め、公開する目的で建てられた「晴明文庫」(当時の所有者は財団法 人清明会 、晴明文庫設立には渋沢栄一も尽力)を改修したものです。その後、所有者が1954年に株式会社学研に渡り「鳳凰閣」の名称に。一時は取り壊しの計画もあったようですが、2012年に大田区が土地と建物を取得し、現在の記念館に整備されました。
「会館建築」といわれ、鉄筋コンクリート造2階建て(一部3階建て)、正面中央には4本の柱を配したネオゴシックの記念館は昭和初期の意匠を伝える貴重な建物。内部には美しく敷き詰められた床のタイルや寄木などが残されています。
レトロな空間を作る記念館の1階では海舟が着用した裃(かみしも)やアメリカに渡った咸臨丸の航路図や羅針盤などの展示物や写真、資料などで彼の一生をたどることができます。2階は晴明文庫時代は講堂として用いられていた空間。ここでは海舟が好んでいた印章のコレクションや洗足軒や晴明文庫のジオラマが展示されています。
ところで、勝海舟のことを書いた本はたくさん出版されていますが、小説家・上田秀人の短編『不実(みのらず)』は、勝海舟が熱烈果敢な若きジャーナリストの徳富蘇峰に坂本龍馬と西郷隆盛の思い出を語る物語。登場人物(全員、歴史上の人物でもある)の人となりが丹念に描かれ、海舟と蘇峰がすぐ隣でやりとりしているような気にさせる、臨場感のある作品です。
勝海舟記念館に隣接する、洗足池の畔には勝海舟が自ら設計した夫婦の墓や盟友・西郷隆盛を偲んで自費で建てた西郷隆盛留魂詩碑、そして勝海舟と西郷隆盛の偉業を讃えた徳富蘇峰の詩碑などが建立された一角があります。『不実』にも書かれていますが、勝海舟は身長が160cmに満たない小柄な人物でした。平和を愛し、江戸の町を戦火から救った小さな巨人…海舟のお墓には彼の極めて親しかった人たちの魂が寄り添っているようです。
infornation
大田区立勝海舟記念館
東京都大田区南千束2丁目3-1
TEL 03-6425-7608
https://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/hakubutsukan/katsu_kinenkan/kinenkan/index.html