「受験」と聞くと厳寒な冬を思いますが、実は意外にも春の季語。受験シーズンが立春(2月4日)から立夏の間にあるからだそうです。
学問の神様といえば平安時代の学者・政治家だった菅原道真の名前をあげる人も多く、各地に「天満宮」が創建されています。
さて菅原道真同様、学問の神様として実在の人物を祀った神社が城南地域に存在するのをご存じでしょうか。
それが世田谷区若林に建造された「松陰神社」。
その名の通り、吉田松陰(1830ー1859)を御祭神としています。
長州藩士であり、山口県萩市で私塾「松下村塾」で実践に役立つ学問を教えた吉田松陰は倒幕や明治維新に貢献した数々の偉人を輩出した人物。
著名な門下生として知られるのは久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、木戸孝允、山県有朋など。90人余りが松陰の教えを受け、彼の死後もその教えを継承しました。
松下村塾は武士の子弟が学ぶ「藩校」と異なり、武士や農民の区別なく向学心が旺盛な人を無償で受け入れていました。
境内には山口県の萩にある松下村塾を模した建物が見学できます。
実際に松蔭が松下村塾で教えたのはわずか2年5ヶ月。短い期間ですが、塾生たちには弟や子どもに対するように穏やかに接し、教鞭をとったようです。ちなみに幕末の私塾で有名なのは緒方洪庵の「適塾」(大阪)、シーボルトの「鳴滝塾」(長崎)、大槻玄沢の「芝蘭堂」(江戸)など。
受験シーズンになると、松蔭神社に祈願参拝する人が後を絶たないこの神社。
頭脳明晰で勤勉だった松陰にあやかり、お守りや絵馬を求める人も多く見られます。
簡単に吉田松陰の生涯にふれてみましょう。
幼い頃より父親から教育を受け、4歳ですでに「四書五経(ししょごきょう)」(儒教の教えの中で特に重要といわれる9種の書)を学んでいた松陰は10才の時に藩校「明倫館」で山鹿素行(やまがそこう)を祖とする山鹿流軍学の講義をしたほか、11歳の時には長州藩主・毛利敬親(もうりたかちか)をはじめ、多くの家臣の前で山鹿素行の「武教全書」を講義。敬親から神童として一目置かれる存在でした。
30歳と短い生涯を送った松陰の思想のなかでも今以て、語り継がれるのは鎖国を解き、外国の文化や知識を日本に取り入れるよう開国を訴えたことではないでしょうか。松陰自身、当初は「尊王攘夷派」でしたが、やがて外国の事情がわかるにつれ、「日米和親条約」が成立すると「尊皇開国論者」に。
有言実行の人で嘉永7年3月27日(1854年4月24日、松陰25歳)、伊豆下田で金子重輔(重之助)とともにペリー艦隊への密航を試みるものの、失敗に終わっています(下田踏海事件)。
しかし「自分たちが密航しようとしたことは、いずれ露見する。ならば自首して自分たちの意志を日本の志士たちに伝えよう」と、打ち首覚悟で下田の奉行所に出頭した松陰たち。決して成功談ではありませんが、自分に少しでもやましいところがあってはいけない、姑息なことは無用とする彼の美学を感じます。
松陰は安政の大獄(1858年から翌59年にかけて、時の大老・井伊直弼が自身の政治に批判的だった公卿や大名、幕臣、志士などに対して行った弾圧)で処刑場の露と消えました。小塚原の回向院に葬られていた遺骸は1862年正月、高杉晋作や伊藤博文の手で毛利家の抱え屋敷があった大夫山(だいぶやま)へ。現在、松陰神社があるあたりです。
しかし、1864年に禁門の変で長州が京から追放されると、幕府はこの抱え屋敷を没収し、松陰の墓を破壊。
絶望的な出来事でしたが、事態が一変したのは長州藩の志士たちが中心となって維新を成し遂げた頃。木戸孝允が1871年に新しい墓碑を建立し、1882年にはお墓のそばに松陰神社が創建されました。今では近隣の人々が早朝の散歩コースに取り入れるほど、親しまれています。
見方を変えれば、この神社は吉田松陰と彼を精神的支柱とした門下生の至誠が継承されている場。松陰は『留魂録』で「我が評価は棺の蓋が覆われてから」という意味の文を残していますが、こうして多くの人が参拝する昨今を思うと「松陰の思想を知らずして明治維新を語るなかれ」という想いにかられます。
なお、松陰を処刑した井伊直弼は安政の大獄の翌年、「桜田門外の変」で暗殺。奇しくも松陰神社からほど近い豪徳寺の井伊家の墓所で眠っています。なんとも巡り合わせの妙…。
試験や資格の合格祈願、受験や何かを成し遂げたいという想いを抱く人は、熱烈果敢な勉強家だった吉田松陰ゆかりの松陰神社に参拝してはいかがでしょうか。
神社の近くでは吉田松陰をモチーフにしたパンやお煎餅を販売するお店もあります。勉強の合間に甘みが心を満たしてくれるはずです。
INFORMATION
松陰神社
東京都世田谷区若林4−35−1
TEL 03-3421-4834
https://www.shoinjinja.org/