中目黒駅周辺の喧騒を忘れさせる、静寂が漂う住宅街の一角にある「岩茶房(がんちゃぼう)」。
うっかり通り過ぎてしまいそうなほど、密やかな佇まいは、知る人だけが出入りを許される隠れ家のよう。整然としたカナメモチの生垣が路地からの視線を遮り、開花を待つ椿と熟した実をつけた柿の木がやわらかな陽を浴びる庭先へ。そこからは日常を解き放つ別世界が広がります。
民家を改装した店内に足を踏み入れると、どこか懐かしさを感じ、胸がいっぱいになります。木のぬくもりを感じる家具や味わいのある書や絵画、中国製の美しい茶器が並ぶ空間にはやわらかな自然光が射し込み、まるでおばあちゃんの家を訪れた時のような安堵感を覚えます。
また、季節を映し出す全面ガラス張りの大きな窓辺は看板猫のお気に入りの居場所。
陽光を毛布がわりにのんびりと丸まっている姿に笑みがこぼれ「猫になりたい!」と思わずにいられません。
都会の秘境といわんばかりの立地に加え、安らぎとインテリジェンスが同居する不思議な雰囲気に軽く衝撃を受ける、この茶房。ここでは中国南東部の福建省・武夷山(ぶいさん)で生産された、希少な烏龍茶である「岩茶(がんちゃ)」が楽しめます。
福建省は「台湾海峡」を隔て、台湾のちょうど対岸に位置する地域。「八山一水一分田」といわれるほど山のある地形が8割を占め、なかでも北部の武夷山は36の峰から成り、岩茶(烏龍茶)の生産地として知られています。
いただいたのは「極品肉桂(ごくひんにっけい)」と「水金亀(すいきんき)」の2種。
まず、「これを飲まずして岩茶を語れない」と紹介されていた極品肉桂(2,500円)を。その名前から「肉桂=シナモン」と思いきや、岩茶の世界で「肉桂」はキンモクセイを意味します。
掌ですっぽり包み込める小さなお茶碗で1煎目をいただくと、口のなかを潤すように広がる華やかな香りが強く、ほのかにスパイシーな後味が心地よく残ります。烏龍茶の1種といえども、普段飲んでいる烏龍茶とは全く異なる多
後述しますが、これは「岩韻(がんいん)」と表される
お店によると、極品肉桂は心と小腸系によいとされ、目や肝臓をすっきりさせたい時におすすめなのだとか。味わいだけでなく、その効能にも惹かれてしまいます。
ユニークで縁起の良さそうな名前の水金亀(2,000円)は四大岩茶(大紅袍、鉄羅漢、水金亀、白鶏冠)の1つ。
その魅力は茶名に劣らず奥深いものがあります。注がれたお茶を一口飲むと、フローラルな香りがふわりと漂い、クセがなく、非常に飲みやすいことに一驚。極品肉桂と飲み比べたら、その特徴がよくわかります。
水金亀という名前の由来には諸説あり、茶葉の枝が濃淡の色合いを交互に重ねる様子が亀の甲羅を思わせることから、その名が付いたとか。
水金亀はある意味“危険な”お茶。なぜなら、そのクセのない優しい風味が口に広がると、甘いものへの誘惑が生まれるからです。
岩茶を注文した際に一緒に出されるサンザシやデーツとの組み合わせは絶妙だし、「ココナッツ豆腐」(550円)に合わせるとスプーンを置くことなく、最後の一口まで夢中になってしまうほど。おやつタイムに至福を添えてくれます。
岩茶(烏龍茶)の歴史は16世紀後半、武夷岩茶の記録から始まったといわれます。日本ではペットボトルが販売されていることもあり「中国茶=烏龍茶」というイメージが根強いですが、実のところ、烏龍茶は中国で生産されるお茶の約7%、世界のお茶の生産量においてはわずか約2%のシェアしかありません。
名前に「岩」と付くのは茶樹が白亜紀から息づく山の岩肌に根を張ることから。
中国・武夷山は、中国の世界遺産のなかでも最大級の面積を誇るほど広大な地域(総面積999.75㎢)で、ここには実に多様な自然環境が存在しています。そんな環境が岩茶の多彩な種類を生み、その数は400を超えるとか。
しかし、「武夷岩茶」として正式に認められるものは非常に希少で、中国人でも名前は知っているものの、口にしたことがない人も少なくないといわれます。
この度は極品肉桂、水金亀の2種をいただきましたが、その味わいを表すのは容易ではありません。私たちが日常で飲むお茶の苦みや甘みといった次元を超え、独特の苦みや渋み、甘み、旨みが複雑に絡み合い、他のお茶には類を見ない奥深い世界が広がっているからです。
この岩茶特有の風味が岩韻です。
岩韻はお茶の成分のほか、茶樹が育つ「岩」の養分(カルシウムやナトリウム、カリウム、マグネシウム、亜鉛他)が醸成されたもので、これが岩茶の個性を育んだといえます。
お店では武夷山で岩茶を作る名人茶師の茶葉を1988年のオープン以来、ずっと取り寄せています。そのご縁から、お店の人とお客さんとで岩茶の故郷を訪ねる中国ツアーを行うこともあるそう。
「開店から閉店まで、ここでずっとお茶を飲みながら過ごされる方もいらっしゃいますよ。お湯のおかわりは遠慮なく、おっしゃってくださいね」。
そんな気さくなお店の方の言葉に甘え、保温カバー付きのポットのお湯のおかわりをすること3回。岩茶の真髄にふれるべく、蒸らす時間を30秒から10分まで少しずつ変えながら試してみました。
最後の7煎目。味と香りは少しずつ表情を変えていくもののの、岩茶がもつ独特の存在感は最後まで揺るがないことを実感。これぞ、中国・武夷山が育んだ強靭な自然の恵みなのでしょう。
この茶房では静かに流れる音楽や控えめな位置に設けられた厨房など、お茶を楽しむための配慮がそこここに感じられます。
岩茶の味わいを最大限に引き出すための五感を研ぎ澄ます空間に身を置き、小さな茶碗で口のなかを楽しませる、幸せな時間。
願わくば、日がな1日、看板猫と戯れながら岩茶とともに過ごしたいものです…。
ここには日常から切り離された特別な時間がずっと流れています。
INFORMATION
岩茶房
東京都目黒区上目黒3-15-5 1階
TEL03-3714-7425
https://gancha-bou.co.jp