桜の名所、目黒川
最近、千鳥ヶ淵や上野公園などとともに東京の桜の名所として名前があがる目黒川。城南地区にある全長約8kmの川は世田谷区から目黒区を経て品川区まで続き、東京湾に注がれます。
川沿いに続く美しい桜並木を見るため、国内外の観光客がたくさん訪れるようになり、目黒川の名前は広く知られるようになりました。が、江戸時代は目黒川という名称は存在していません。当時は「垢離取り(こりとり)川」と呼ばれ、それは目黒不動尊に参詣する人々が川の水で垢離取り(身を清めること)をしていたことから、この名前が付いたようです。
目黒川は昔から川幅が狭くて水深も浅く、曲がりくねっていることから大雨が降ると氾濫することが多々あったようです。そのため、護岸工事が繰り替し行われてきました。大正12年には目黒川に舟入場を作る治水工事が始まり、昭和12年に完成します。舟入場は現在もある「田楽橋」と「皀樹(さいかち)橋」の間に作られ、当時、目黒川沿いに増えてきた工場の資材の運搬に使われましたが、もともと水量が少ないことからあまり利用されなかったといいます。ちなみに、昭和初期には肥料やゴミ、海苔漁に欠かせない海苔ひびに用いる竹などが運ばれていました。当時の目黒には竹林が多くあり、海苔漁に大変役立てられたとか。
舟入場よりも上流では戦前、子どもたちの水遊びをしたり、ホタルが飛び交う光景が見られました。また、水車も設けられ、製粉や精米などが行われたそうです。また、昭和30年代後半までは染物屋による友禅流しを目にすることもできました。目黒川はそれほど長い川ではないですが、中流域は工業のため、清流だった上流域は人々の暮らしのために使われるなど、地域社会と非常に密接だったことがわかります。
さて、現在の美しい桜並木の出発点は目黒川の護岸工事にあります。これは工事が行われるたびに、地元の有志が桜を植樹したのが始まりで、最初の植樹は昭和2年。それから数度の植樹を経て、目黒川の桜並木は育っていきました。
現在70代で、下目黒で生まれ育ち、暮らしてきた男性は「昭和30年代前半は下目黒小学校に通学していましたが、目黒川沿いでお花見なんかとても考えられませんでしたね。当時から川沿いには工場が立ち並び、川の水もきれいではないし、子どもの目にも川沿いは明らかに行楽の場ではありませんでした。けれど、20年ぐらい前から目黒川は桜の名所として取り上げられるようになりましたね。中目黒にオシャレな飲食店がたくさん出来て人が集まり始めたことと美しく成長した桜とのタイミングがあったのではないでしょうか」と話します。
春、桜の満開を迎えると約830本のソメイヨシノが植えられている目黒川沿いは多くの人で賑わいます。とくに中目黒駅周辺では「止まらずに歩いてください」というプラカードを掲げる人がいるほどの混雑ぶり。この光景を昭和2年に桜を植樹した地元の方々は想像できたでしょうか…。川沿いの桜のなかにはあともう少しで川面に枝葉が届きそうなほど、成長したものも見られます。
さて、満開の見ごろを見逃してしまった…という方のためにJONAN MAGAZINEからこんな情報を。日照量の少ない船入場橋から駒沢通りにかけての桜並木は満開の時でも蕾の状態なので、開花が遅めです。よって、人出が落ち着いた頃に見ごろを迎えます。
また、池尻大橋駅の北側には目黒川緑道が整備され、東邦大学医療センター大橋病院付近の緑道では大ぶりな数本の桜とともに季節の美しいお花が楽しめます。こちらも目黒川沿いとはまた趣の異なる桜の光景が見られます。ぜひ、コロナ禍が収束した頃の散策のヒントに。