世田谷線と小田急線が交差する豪徳寺駅周辺は、人の往来が絶えない駅の近くでありながら、不思議なほど静けさを感じさせる場所。
路面電車のどこか懐かしさを感じる音や小田急線の通過音が耳に届くものの、その響きは街の風景に溶けこみ、心地よい環境音になっているのを感じます。

写真中央部に見えるのは豪徳寺に広がるこんもりと茂る深い木立

世田谷線「山下」駅あるいは小田急線「豪徳寺」駅から徒歩約8分。
招き猫のお寺として知られる古刹「豪徳寺」の裏手にひっそりと佇む「旧尾崎テオドラ邸」は深い歴史と文化を感じさせる、水色の洋館。近年は建造当時の美しさを保ちつつ改修され、2024年3月に文化とアートが息づく場としてオープンしました。

明治生まれの美しい水色の洋館は西洋への憧れを映し出す象徴となったことだろう

尾崎テオドラというユニークな名前の洋館の前に立っていると、偶然通りかかった近所のご婦人に声をかけられました。「この洋館は釘を使わずに建てられていると聞きました。昔、このお宅に暮らしていた人と仲が良かったから、よくこちらで麻雀をしたものですよ」と。

洋館と麻雀!そのギャップに驚きました。
一見すると全く結びつかないイメージですが、釘を使わずに建てられたという建築技術からは長い歴史を、麻雀を楽しんだというエピソードからはこの場所が単なる住まいにとどまらず、人々の交流の場として機能していたことを感じました。

この洋館が産声をあげたのは1888(明治21)年、東京・麻布でのこと。

当初は東京市長を務めた尾崎行雄の家と伝えられてきましたが、実際はのちに彼の妻となる尾崎テオドラ英子の父・尾崎三良男爵が、娘の来日の頃に建てた住宅でした。新築祝いには政治家の伊藤博文(当時は枢密院議長)も参加したそうです。

尾崎一家の写真も飾られている。尾崎行雄と尾崎テオドラ英子は結婚で同じ苗字になったわけではなく、偶然にも同じ尾崎姓だったそう

その後、この洋館を譲り受けた英文学者・岡田哲蔵が1933(昭和8)年に現在の地へ移設。個人の住宅やシェアハウスとして使われてきました。実は世田谷で一番古い洋館なのです。

しかし2019年、老朽化により取り壊しの危機に直面。
そのことを知り「旧尾崎邸保存プロジェクト」を立ち上げたのは、この洋館の近くに暮らす漫画家の山下和美さんでした。

山下和美さんがこの洋館をモデルに描いた自主制作漫画『テオドラハウスはどこですか?』のポスター。この漫画は洋館のショップで購入できる

2020年夏には解体されるはずだった洋館。

しかし、近隣の人たちやネット上の呼びかけに賛同した4,000人以上の支援により、運命の歯車は逆方向に回転。取り壊しを免れることができました。
その後、山下さんは漫画家の笹生那実さんとともに土地と建物を購入。社団法人を設立し、クラウドファンディングや複数の漫画家からの融資を活用しながら改修を進めました。

水色の洋館は漫画家たちの情熱に支えられ、建築家の手を借り、幅広い世代が楽しめるようにと「ギャラリー」と「喫茶室」を設け、人々が集う場所へと生まれ変わりました。

1888(明治21)年から130年以上の歳月を生き抜いてきた旧尾崎テオドラ邸の建築様式は「下見板コロニアル」と呼ばれるコロニアル様式が採用されています。壁の水色はハイブランド「ティファニー」のイメージカラーを思わせることから「ティファニーブルー」とも。館内は1階が資料室と喫茶室、ショップ、2階はギャラリーで構成されています。

1階入り口からすぐの部屋には、尾崎行雄一家の写真やこの洋館の歴史を伝えるパネルが展示されています。その一角にはアンティークなチェアに腰掛けて写真が撮れるフォトスポットも。

2階へと続く階段は建造当時のまま残る重厚な手すりが年月の重みを物語っています。かつては子どもたちのすべり台としても親しまれていたそうです。
また、高い位置に設けられた木製の上げ下げ式の窓も、時代を超えた意匠の美しさを感じさせます。

2階は漫画を中心に展示するギャラリー空間。

訪れた時には、この洋館に新たな息吹をもたらした立役者である山下和美さんの『不思議な少年』の展覧会が開催され、少年を描いた原画の数々や、単行本未収録の貴重な原稿が展示されていました。

山下和美「不思議な少年」展会場では原画の販売も。ギャラリーは2階の2部屋を使用

なお、ギャラリーの什器は荒川区に存在していた私設のぬりえ美術館から譲り受けたもの。実際に引き出して鑑賞できる工夫がなされ、展示物の魅力をじっくりと味わえる空間となっています。

館内には明治時代から受け継がれてきた年月の重みと風格が随所に感じられます。
無骨でありながらも美しい風合いを帯びた木の床、窓から差し込む陽光に包まれる踊り場、そして各部屋を仕切る秩序ある美を思わせる扉。そのひとつひとつに、時代を超えて積み重ねられてきた物語が刻まれています。

一階の入り口から喫茶室へ向かう廊下

どの時代に、どのような人々が暮らし、どんな日々を過ごしていたのでしょうか。
年月を刻んだ無垢材のフロアに佇んでいると、時間の流れが静かに紡がれていくようです。

高い天井が開放感を、ドレープの美しいカーテンが渡された大きな窓がやわらかな自然光を部屋全体に届ける1階のクラシカルな喫茶室では、ゆったりとした時間が流れています。
ここでは厳選された4種の紅茶、コーヒー、カフェオレ、2種のフレッシュジュースとともに、専属のパティシエが手がける自家製ケーキやアフタヌーンティーを楽しめます(喫茶室の利用は90分制)。

美しい洋館の中で展示を鑑賞し、アフタヌーンティーを頂くという贅拓な時間を過ごせる

アフタヌーンティーは上段に季節のショートケーキ、グラスデザート、フルーツ、中段にはオリジナルのヴィクトリアケーキとスコーン、下段には風味豊かな3種のサンドイッチが並んでいます。

世田谷区で本格的なアフタヌーンティーを楽しめる洋館は非常に希少

まずは下段のサンドイッチのなかから「コロネーションチキンサンド」を。
手を伸ばすと、ふわりと香るカレー風味に驚かされます。このサンドイッチは、エリザベス2世の戴冠式後の昼食会のために考案されたもの。スパイスの効いたひねりのある味わいが食欲をそそります。

手前から「キューカンバーミントサンド」「たまごとクレソンサンド」「コロネーションチキンサンド」。英国の歴史やシェフのオリジナリティを感じられる、驚きの詰まった美味しいサンドイッチだ

「ヴィクトリアケーキ」は19世紀にヴィクトリア女王が愛したイギリスの伝統的なお菓子。こちらの喫茶室では厳選した紅茶の葉を練り込んだしっとりとしたスポンジに季節のジャムを挟み、上品な味わいに仕上げています。

イギリスのヴィクトリアケーキがここで味わえるとは!伝統にパティシエのセンスを加えた美味しく仕上げられた一品
アフタヌーンティーに欠かせないスコーンも。クロテッドクリームとジャムもたっぷりあるので、載せるようにして頂こう

グラスデザートは、期間限定で提供されるケーキ「ショコラピスターシュ」をアレンジしたもの。
シェフパティシエの関海(せき かい)さんは「開催中の山下和美さんの展覧会『不思議な少年』をイメージして作りました。少年が時代を超えて出会う人々の運命をフランボワーズやパッションフルーツ、ピスタチオ、ショコラなど、さまざまな味わいと風味で表現しました。ここでは展覧会ごとにテーマに合わせたデザートを企画するのですが、そのたびに新たなものを考える作業が楽しいですね」と笑顔を見せます。

とろりと濃厚なショコラから始まるグラスデザート。鑑賞した展示に思いを馳せながらアフタヌーンティーを頂けるのも、旧尾崎テオドラ邸ならでは

なお、旧尾崎テオドラ邸は世田谷区内で開催されるイベントにも積極的に参加しています。

統括マネージャーの乙部彩佳さんは、「地域の方々に当館のことをもっと知っていただきたいと思っています。豪徳寺で開かれる『沖縄祭り』や『たまにゃん祭り』では、当館でも販売するクッキーが人気を集めました。こちらはご近所のケーキ屋『Cakes!』さんとコラボしたものです」と話します。

お話を伺った統括マネージャーの乙部彩佳さん(左)、シェフパティシエの関海さん(右)

洋館の美しい水色を思わせるクッキー缶は山下和美さんが描き下ろした「猫とテオドラ」のイラストがデザインされたもの。旧尾崎テオドラ邸を訪れた際にはお土産として購入してはいかがでしょうか。

数量限定販売の「Cakes!コラボクッキー缶」(税込3,500円)。テオドラ邸への来館記念として是非購入したい一品

館内ギャラリーでは2025年4月12日から5月20日まで、萩岩睦美 「ポー&リルフィ展」が開催されます。また5月24日から7月15日までの期間で東村アキコ「かくかくしかじか展 ―漫画と絵画 永遠のリグレット―」が、7月19日から9月2日までの期間では浦沢直樹「テオドラ邸deあさドラ!展」が開催予定です。
展示を楽しむとともに、漫画家たちの情熱によってよみがえった明治生まれの洋館の趣にふれてみてはいかがでしょうか。

1階のショップでは旧尾崎テオドラ邸や展示中の作品に纏わる様々なグッズが置いてある他、旧尾崎邸保存プロジェクトに係わった漫画家の寄せ書きを鑑賞することもできる
INFORMATION

旧尾崎テオドラ邸
世田谷区豪徳寺2-30-16
03-6413-5413
●事前販売チケット(チケットぴあにて販売)
・ギャラリー入場料:1,000円(税込)
・喫茶室 席予約付き ギャラリー入場券:1,000円(税込)
・アフタヌーンティー付き ギャラリー入場券:5,950円(税込)
※未就学児は無料、旧尾崎テオドラ邸ショップにて当日券の販売もあり
https://ozakitheodora.com