「柿の木坂陸橋交差点では上下線とも…」
都内の交通情報を伝えるラジオから「柿の木坂」の地名を知った方もいらっしゃるのではないでしょうか。
柿の木坂陸橋交差点から目黒通りを都心とは反対側に曲がった先に見えるのが東急東横線の高架と「都立大学」駅です。この駅名はかつてこの地に開校していた東京都立大学が由来。1991(平成2)年に都立大学は八王子に移転し、跡地には「めぐろ区民キャンパス」が整備されました。
◼︎目黒通りの今昔
駅近くに走る目黑通りは1927(昭和2)
さて、その頃の目黒通りは現在のような直線ではなく、都立大学駅前交差点から現在「Abe BMW 目黒ショールーム」となっている場所まで迂回していました。直線化されたのは1961(昭和36)年のこと。そのため前述した「引揚マーケット」は撤去され、東横線の高架下に移ったというわけです。
◼︎都立大学の学生たちが商店街から布団を運搬
めぐろ区民キャンパスのランドマークとなっているのが2002(平成14)年に開館した「めぐろパーシモンホール」。この施設を中心に八雲体育館をはじめ、目黑区立八雲中央図書館、セレモニー目黑(葬儀専用式場)、身体障害者センターあいアイ館、住宅棟などでキャンパスは構成されています。
東京都立大学があった頃の思い出を柿の木坂商和会の「鉄扇屋ふとん店」の女将さんが話してくれました。
「ここは昭和28年に創業しました。店の前にのびている天神坂は急坂でね、ゆるやかにするために坂の上の方を削ったのよ。都立大学があった頃は敷地内にプレハブが建ってましてね、そこで寝起きする学生のために布団を貸していたんですよ。けれど、布団の運搬まで行うと予算的に大変だからどうしようか?となった時に沢山の学生さんたちが申し出てくれてね、店から70組ぐらいの布団を運んでくれたんですよ。時代は60年代安保闘争の頃。だから布団を運ぶ様子を見ていた近所の人が、都立大でも何か学生運動や闘争が起こったんじゃないか?と心配してね(笑)。そんなこともありましたね」
そんな人情味あふれる学生たちが通った都立大学は移転。その名残はヒマラヤスギ、トウヒ、 プラタナス、クヌギなどが気持ちの良い木陰を作る 「やくも文化通り」に残されている門跡に見られます。
◼︎柿の木坂周辺に暮らす人々の生活に欠かせなかった吞川
パーシモン(persimmon)とは英語で「柿」という意味で、 交通情報でおなじみの「柿の木坂陸橋交差点」の名称でもわかるように「柿の木坂」という古くからある町名に由来します。
さて、柿の木坂というほどだから柿の名産地と思いきや、そんなことはなく、町名の由来は諸説あり、急坂だった頃に柿生からやって来た農民の荷車から柿を抜き取る様子から「柿抜き坂」が訛って、柿の木坂になったという説もあります。
柿の木坂は古くからの閑静な住宅地で、今も著名人の住まいが点在することで知られています。30数年前にご主人の転勤に伴い、岡山県からこの街に転居した女性(72)は「東京に来て初めて住んだのが、めぐろパーシモンホールの近くにあるマンションでした。生まれ育った岡山から離れたことがなかったので、初めての東京暮らしを心配していましたが、同じマンションの住人は気さくで良い方ばかり。一定の距離感を保ちながら、お互いの生活に踏み込むことなく、暮らしやすかったですね。この街は一度住むと、⻑く暮らす方が多いのではないでしょうか」と話します。
今は緑道になっていますが、昔は呑川(柿の木坂支流)が流れ、柿の木坂界隈に暮らす人々の生活になくてはならない存在でした。大人は清流で炊事道具や食器を洗ったり、なかには染物をする人も。子どもたちにとっては格好の遊び場で、夏になると川遊びやザリガニを捕まえたり。そのザリガニは醤油で煮て食卓にのぼったこともあったそうです。
パーシモンホール前に広がる芝生広場では夏になると、虫とり網を片手に小さな生き物を探す子どもたちでいっぱい。その脇には小さな渓流のある「じゃぶじゃぶ池」があり、水遊びをする子どもたちのはしゃぐ声で満ちています。「夏の子どもたち」は今も昔もエネルギッシュ!その姿に在りし日の呑川を、そしてかつての自分を投影してしまいます。