桜新町を訪れたのは桜の季節。
東急田園都市線の桜新町駅の地上出口を上がると、やわらかな春の光に包まれた桜の隣で、アノ懐かしい顔ぶれが出迎えてくれます。波平、フネ、サザエ、マスオ、タラオ、カツオ、ワカメ…磯野家とフグ田家の面々。思わず「久しぶり」と言いたくなるような親近感に包まれます。

この街が「サザエさんの街」と呼ばれるのは、作者・長谷川町子がこの地に長く暮らし、彼女が収集した美術品を展示する「長谷川美術館」があることから。

「サザエさん通り」と名付けられた商店街を歩き始めると、建物の外壁や郵便ポスト、通りを飾るフラッグなどにサザエさんファミリーを目にすることになります。



この通りは生活の気配に満ちています。
顔なじみの店員と挨拶を交わす買い物客が集まるスーパーマーケットに昔ながらの文房具店。十字架を屋根に掲げた教会に桜の花びらをモチーフにしたベランダを備えたマンション、その隣にはサザエさん一家のシルエットが描かれたシャッター…。日常のあちこちに、小さな物語がそっと織り込まれているのです。


ふと心をつかまれたのが、桜新町商店街振興組合のビル。
1階が開放されているうえ、電源まで用意され、誰でも気軽に立ち寄れる休憩スペースとして機能しています。ここでは、オリジナルのサザエさんグッズも販売され、商店街と長谷川美術館との親密なつながりが、さりげなく伝わってくるよう。さらに、ここでは月に1度、地元の人が健康や医療・介護の相談ができる「暮らしの保健室」も開かれています。


買い物帰りの人や学生、ひと休みしたい旅人、悩み相談をしたい人々をそっと受け入れるこの仕組みに、街の懐の深さを感じました。
実はこの街には、人を受け入れてきた長い歴史があります。
1954(昭和29)年に青森・上野間の集団就職列車が運行されると、翌年には桜新町では都会で働く若者の受け入れが始まりました。住み込みで働く若者たちのためにマナーを教える「店員教室」が開かれたという記録も残っています。遠くから仕事を求めてやってきた人たちを、この街は温かく迎え入れてきたのです。
そんな人情味を感じさせる歴史を胸に歩を進めると、長谷川町子美術館が近づくにつれ、道沿いに桜がちらほらと顔を見せはじめます。見上げれば淡いピンクの花が枝を覆い、その向こうには首都高速の高架がのぞく…都会ならではの春の風景が広がっていました。

ところで、桜新町という地名は、「桜」と「新町」という2つから成り立っています。
「新町」は、彦根藩領世田ヶ谷村から独立する際に名付けられた「世田ヶ谷新町村」に由来します。その後、1912(明治45)年から1913(大正2)年にかけて、東京信託株式会社(現在の日本不動産)が関東で初めての郊外型の分譲地である「新町分譲地」を造成。この開発により、道路の両側には数百本のソメイヨシノが植えられ、日本初の“分譲地の桜並木”が誕生します。
そして1968(昭和43)年、住居表示の実施に伴い、旧来の「新町」に桜並木にちなんで「桜」を加え、「桜新町」という地名が生まれました。

しかし、地下鉄の開通や道路の整備、そして老木化が重なり、多くの桜が伐採されました。駅前の通りに桜が植えられたのは1980年のことで、近隣の早咲きの桜が見頃を終える頃に代わって主役となる「八重桜」が選ばれました。その選択には街の桜を長く楽しみたいという地元の人たちの願いがあったといいます。今では毎年、申し合わせたようにピンクの綿帽子を被り、通りを行き交う人たちに春の訪れを伝えます。

桜が連なる駅前通りは、江戸時代に大山詣での旅人たちが行き交った「大山街道」でした。そんな歴史の面影を伝承するように地元の人はここを「旧道」と呼びます(ちなみに、並走する国道246号は「新道」)。春になれば桜のトンネルとなるこの通りを駒沢方面に進むと、驚くような長い行列が目に入ります。「桜神宮」の御朱印を求める人たちです。毎月限定の御朱印はとりわけ人気が高く、御朱印帳を手にした人々が、静かな高揚感とともに順番を待っていました。

この神社では、早咲きの河津桜に「えんむすびの花帯」と呼ばれるピンク色のリボンを結ぶ風景が知られています。訪れた日、河津桜の見頃は過ぎていましたが、風に揺れるリボンの淡い色彩が目を楽しませてくれました。

さらに進むと、パティスリーやカレー屋など個性的な外観のお店が顔を並べ、ふと横道に目をやると、「久富稲荷神社」の鳥居が連なる光景が現れます。まるで異界への入り口のような、静かな迫力。

また、桜新町駅の北側には京都発のモダンなコーヒーショップ「OGAWA COFFEE LABORATORY 桜新町」やドイツの製法を受け継ぐベーカリー「べッカライ・ブロートハイム」など、新旧の魅力を携えたお店が点在しています。

さて、桜新町の桜をゆっくりと楽しむのにおすすめの場所が、駅前通り沿いのカルディビル3階にある「HAGARE(ハガレ)」。
こちらはカルディプロデュースのカフェ&ワインバルで、店名は「輸入の際にラベルが剥がれ(HAGARE)てしまったワインをお値打ちに提供する」というユニークなコンセプトに基づいています。

ウッディで落ち着いた店内には、ゆったりとしたソファ席も設けられ、子ども連れの家族からカップル、おひとり様まで、さまざまな客層が訪れます。一角には、ちょうど駅前通りの桜が眺められるテーブルもあり、桜を愛でながらカルディらしい世界各地の食材を生かしたメニューが楽しめます。


帰り道には、桜新町らしい手土産を選ぶ楽しみも待っています。
しっとりと焼き上げられた年輪が美しい「ヴィヨン桜新町店」の「バームクーヘン」やサザエさんのパッケージデザインにときめく「伊勢屋 桜新町店」の「サザエさんどら焼き」。どちらも、この街の思い出を封じ込めたようなお土産です。

桜新町の2つの顔といえるサザエさんと桜には、どこか親和性があるように思います。
昭和という時代を伝える家族の物語と、毎年同じ時期に咲いては散る桜。どちらも人の心をふっと明るくする空気や懐かしさをたたえ、どこか遠い日の記憶を呼び覚ますような日本の原風景を映し出しているように感じられます。

変わらないように見えて、少しずつ移ろいながら、また同じ場所へ。その繰り返しに、人はぬくもりや安らぎなどを見いだしているのかもしれません。

