京王線「八幡山」駅のほど近くに走る、東京の大動脈。
正式名称を「東京都道311号環状八号線」という、絶え間なく車が流れる「環八」のすぐ脇に、思いがけず豊かな自然が広がる場所があります。
それが今回訪れた「蘆花恒春園(ろかこうしゅんえん)」です。

この日は冬枯れした樹木が凛と林立するなか、梅の花がほぼ満開。冷たい空気の中に春の気配を運んでいました。
この公園は、明治から大正にかけて活躍した作家・徳冨蘆花(とくとみろか、1868-1927)ゆかりの地。彼が1907年、40歳の時に青山高樹町から移住してきた終の棲家と宅地を整備して作られました。
蘆花はかつて、赤坂氷川町の勝海舟邸内にある借家に暮らしていた時期もありましたが、華やかな都会を離れ、なぜこの地を選んだのでしょうか。

その背景にあったのは、ロシアの文豪トルストイへの傾倒です。
ベストセラーとなった小説『不如帰(ほととぎす)』で人気作家の地位を確立していた蘆花と妻の愛子は1906年、ロシアにトルストイを訪ねた際、「半農生活」をすすめられました。
帰国した翌年、トルストイの言葉を実行に移した蘆花が最終的に選んだのは粕谷村(東京府北多摩郡千歳村大字粕谷)。
当時はわずか26戸の小さな集落だった粕谷村。一番近い隣家まで100mも離れていたというこの地で、彼は「土と共に生きる」生活を追い求めたのです。

ちなみに、彼が転居した翌月には玉川電車(玉電)が渋谷〜二子玉川間で開通。
世田谷周辺に近代化の波が押し寄せる、その直前の静寂を蘆花は手に入れたのかもしれません。
園内は、旧宅のある「恒春園」区域と、常時開放されている「公園」区域に分かれています。
恒春園エリアでとくに目を引くのは、幽玄な趣をたたえた孟宗竹の竹林。その一角にある「蘆花記念館」では、彼の人生や思想に触れることができます。展示を眺めていると、華々しい成功の裏にあった葛藤や彼が描いた理想が立ち上がってくるようです。


記念館のそばには、蘆花夫妻が晩年を過ごした六畳二間の旧宅、そこから廊下でつながれた「梅花書屋(旧書院)」、そして「秋水書院(奥書院)」が建っています。
秋水書院は築90数年の民家を350円で購入し、移築費用に803円を投じたものだとか。建物はどれも質素ですが、自然と溶け合うようなその佇まいからは、夫妻が「晴耕雨読」を地で行く日々を送っていた気配が色濃く漂います。



蘆花の宅地は移住後の4年間で2千坪以上、当初の面積より6倍に膨れ上がり、村人たちはここを「粕谷御殿」と呼びました。その広大さから小説家・蘆花の圧倒的な人気ぶりがうかがえます。
当時、粕谷近郊の村々では、夏は瓜や茄子、秋は大根や里芋を栽培していました。
農家の人々は、大八車を引いて五里(約20km)離れた東京の問屋まで野菜を運び、その帰り道に街の屋敷から肥料となる「し尿」を汲んで帰るのが日常でした。

それを、蘆花は親交の深かった作家、国木田独歩への手紙の中でこう綴っています。
「都会の汚物を浄化してまた送り戻す循環作業も面白いものじゃないか」

彼は近隣の人々に荷役や農耕に適した牛を飼うことをすすめてもいます。
関東大震災の時に村人たちが東京へ、11台の牛車に野菜を積んで救援に駆けつけられたのは日頃の“循環作業”を通じて築かれた「都会と農村」の強い絆があったからこそ。蘆花の農的な思想は、しっかりとこの地に根ざしていたようです。

園内を歩けば、泰山木の大きな葉、空を突くように伸びるヒマラヤ杉や熊笹、そして幹がスッとまっすぐに伸びるスギ科のコウヨウザンなど、多種多様な樹木が目を楽しませてくれます。それは派手さのある庭園の対極にある、武蔵野の面影を色濃く残す「林」の中を歩く感覚。
この林も蘆花の農作業に欠かせない役割を持っていました。
居を構えた当初は近隣の農家から馬糞を分けてもらい、技術や知識がないゆえ、肥料作りの失敗を繰り返していた蘆花。しかし、歳月を重ねると、この雑木林の落ち葉で堆肥を作り、近所の農家に売るほど、農の腕を上げたといいます。
半農暮らしを送った蘆花は、粕谷での暮らしを綴った随筆集『みみずのたはこと』(1913年刊)を刊行。この作品のなかでは世田谷の冬の風物詩である「ボロ市」についても書かれています。
園内には蘆花の死後、妻・愛子夫人が暮らした住まいも残されています。
その傍らには大きく枝を伸ばすサルスベリの木。夏を迎えると花を咲かせ、ここがどのような光景になるのか、季節を変えてまた訪れたくなりました。


恒春園区域から一段低くなったエリアには子どもたちの声が響く児童公園があり、点在するベンチでは人々が思い思いの時間を過ごしています。
ふと視線を上げれば、木々の向こうにそびえ立つのは東京ガスの大きなガスタンク。武蔵野の自然と都市インフラが同時に視界に収まるのは、いかにも現代の東京らしい光景です。


冬枯れの景色の中で、とりわけ目を奪われたのが「花の丘」エリアでした。
そこだけが別世界のようで、一面にまばゆいばかりの菜の花が! 黄色の絨毯をさっと広げたような華やかさは、まるで春の祭典。その彩りは、先日開催されたミラノ・コルティナ五輪の銀盤で躍動したフィギュアスケーターたちのこぼれんばかりの笑顔のようで、心を高揚させてくれました。


ところで、かつてこの公園には時折、世田谷区船橋に暮らすある高齢の男性がふらりと訪れていたとか。そして、蘆花の『此頃の富士の曙』をそらんじては、管理事務所のスタッフに聞かせていたそうです。
この男性こそ、ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』やテレビ、ラジオ、映画などで活躍した名優・森繁久弥(彼の名は、かつての住まいの近くに「森繁通り」として残っています)。
彼もまた、蘆花の紡いだ風景を胸に抱き続けたひとりだったのでしょう。
蘆花恒春園を訪れた日は京王「八幡山」駅から向かいましたが、隣駅の「芦花公園」駅からも徒歩圏内。
もとは「上高井戸」という駅名でしたが、1937(昭和12)年、蘆花の妻・愛子夫人が宅地を東京市に寄付したことをきっかけに、芦花公園に改称されたといいます。1人の作家がこの地に遺した影響力の大きさに、改めて驚かされます。

自然に囲まれた徳冨蘆花のかつての住まいと人々の日常がゆるやかに重なり合う蘆花恒春園。
決して多くの観光客で賑わう場所ではありませんが、蘆花が追求した半農暮らしの精神、つまりはスローライフの原点が息づいている地といえます。
立ち止まって足元の土に、そして頭上を照らす太陽の光に改めて感謝…きっと蘆花夫妻もこの同じ空の下で季節の移ろいに目を細め、日々の営みの尊さを噛みしめていたことでしょう。
参考文献
『蘆花の妻、愛子 阿修羅のごとき夫なれど』(本田 節子、藤原書店)
『恒春園離騒 蘆花と蘇峰の相克』(渡辺 勲、創友社)
INFORMATION

蘆花恒春園
世田谷区粕谷1-20-1
03-3302-5016
https://www.tokyo-park.or.jp/park/rokakoshun-en/index.html
