東急世田谷線「松原」駅から歩いて数分でたどり着く、世田谷区赤堤と経堂を結ぶ「西福寺通り」。
この通り名にもなっているのが、1584(天正12)年に創建された真言宗豊山派の古刹「西福寺(さいふくじ)」です。正式には「光林山持明院」と称し、高野山金剛峯寺の子院である宝塔院から山院寺号を授かった由緒ある寺院です。
通りで、まず目に飛び込んでくるのは「葵の御紋」。
この紋が語るのは、いわずと知れた徳川家との深いご縁です。

実はこのお寺、徳川家康が直面した三大危機の1つである「神君伊賀越え」と深い関わりがあります(他の2つの危機は、家康が22歳の時の「三河一向一揆」、31
暦を遡ること1582(天正10)年。41歳の家康は20年来の同盟相手であった織田信長の招きを受け、安土城での手厚い接待を経て、堺の街を観光中でした。
そんな折に勃発したのが、明智光秀が主君・織田信長に謀反を起こし、京都・本能寺において信長を討った「本能寺の変」でした。
盟友・信長を突如失った家康はあまりの絶望に自害も考えたようですが、家臣たちに諭され、三河国への決死の脱出を図ることに。
しかし、行く手には険しい山々が連なり、各地では落ち武者狩りを行う一揆勢や明智光秀の軍勢が待ち構える、一瞬たりとも気を抜けない状況でした。わずかな手勢のみで横断しなければならない家康一行は生死を分ける瀬戸際に立たされていたのです。


そんな極限の旅路の中で、彼らに手を差し伸べた人々がいました。
そのひとりが、伊賀出身の服部左兵衛貞信(はっとり・さひょうえ・さだのぶ)でした。
当時、宇治田原にある呉服(くれは)明神の神職を務めていた貞信は、険しい山中で家康一行を警護し、自らの住まいへと迎え入れました。貞信は追手の目をかいくぐるよう細心の注意を払って進路を整え、一行が無事に三河へと帰還できるよう、心を尽くしたと伝えられます。
貞信を高く評価した家康は、1590(天正18)年の関東入府にあたって、彼に赤堤村など計160石の土地を与えました。その後、貞信は「関ヶ原の戦い」においても、息子である貞富とともに東軍に従い、さらなる功を立てました。
西福寺を建立したのは貞信の跡を継いだ息子、服部貞富の代のことです。
(一説によると、西福寺は服部増祐が開基したともいわれます)
貞富からその子、貞常の代になると父祖の遺跡を継いで1600石を知行する身となりました。

門に掲げられた葵の紋は、家康を救った貞信の忠義とその志を受け継いだ息子、貞富の想いが、今もこの地に息づいている証なのです。
重厚な仁王門をくぐり境内へ足を踏み入れると、そこにはまるでおだやかな時間が降り積もったような光景が広がります。

銅板で葺いた屋根瓦が重厚さを醸す本堂の前で迎え入れてくれるのは、慈愛に満ちた表情を浮かべる大きな観音像です。

このお寺を訪れたのは寒気が容赦ない1月中旬。
観音様の傍らでは梅の花が凛とほころびはじめ、境内に淡い彩りを添えていました。厳しい冬の最中に凛と咲く梅の花は、家康公の窮地を救った服部貞信の歴史とも重なるよう。観音像に見守られながら、子どもの頬のような紅色の梅が自然光に透ける光景は情緒をかき立てる美しさを放っていました。

そして境内では、いたるところに祈りの形に遭遇します。
自分に縁のある「十二支の守り本尊」を詣で、愛らしい連なる「六地蔵」に手を合わせる…。静謐な祈りの時間がここに流れています。

また、四季折々に色づく花々がいたるところに植えられているのも、このお寺の魅力です。本堂の前で背伸びをするように枝を伸ばすのは、夏に鮮やかな花を咲かせるサルスベリ。秋から冬にかけては寒椿の濃厚なピンク色の花、南天や万両の縁起の良い赤い実が、歴史ある建築に彩りを添えます。

かつて徳川家康の窮地を救い、赤堤に礎を築き、西福寺を開いた服部家の血脈は代々受け継がれました。
幕末には服部貞勝という松前奉行や勘定奉行といった要職を歴任し、激動の時代を支えた傑物も輩出しています。境内の奥にある墓所には貞勝を含む服部家の方々が今も静かに眠っています。

本マガジンではこれまで、三代将軍・徳川家光にゆかりのある寺院を数多く紹介してきましたが、開祖である徳川家康との直接的な絆を感じさせる場所は城南地区には家光ほど、多くないように思います。
だからでしょうか。家康の息遣いや時代の緊張感を今に伝える寺院の存在は、ひときわ重みを帯びて感じられるのは。
当時の赤堤は江戸城からは距離のある土地柄でした。そんな場所に残る家康との邂逅の記憶に思いを馳せながら歩くことも、城南地区を巡る楽しみのひとつなのかもしれません。
〈参考文献〉
『史料に見る 江戸時代の世田谷』(下山照夫編 岩田書院 1994年)
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西福寺
東京都世田谷区赤堤3-28-29
03-3321-6546
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