「武蔵野」という言葉は、どこか抽象的で、日常から少し距離のある響きだと感じていました。
けれど、ふいにその名が口をついて出た瞬間。土地に刻まれている記憶が、足元から呼び覚まされたように感じたのです。
それは東京・城南地区有数の邸宅街として知られる、洗足の一角。
素朴でありながら生命力にあふれる雑木林を目にした時の出来事でした。
一般財団法人宮野古民家自然園。
門の前でひときわ目を引く高さ16mにもなるチャボヒバをはじめ、家の守り神であるかのように力強く根を張る樹木の数々が、この地に積み重ねられてきた永い暦を静かに物語っています。


宮野古民家自然園はこの地で農家を営んでいた宮野家が、自らの屋敷と屋敷林を後世に残すために1995(平成7)年に開園。中心となったのは宮野家七代目であり、同園初代理事長を務めた宮野錠次(みやの じょうじ)さんです。先祖から継承し、自らも暮らした場所を文化遺産として公開するといった選択が、令和の今へとつながっています。

実は、都内に残る古民家のなかには別の場所から移築されたものも少なくありません。
その点、宮野古民家自然園の民家はもとからこの場所に建ち、ずっと在り続けてきました。土地に積み重ねられた時間が、この家と庭園の空気をいっそう濃いものにしています。
そんな希少な古民家の背景を知るべく、同園事務長の秋山和生さんにご案内いただきました。
宮野家の主屋が建造されたのは江戸・寛政期の1789年以前。
家の中は「田の字形」で構成されています。これは一般的な農家住宅の間取りで、4つの部屋が中心を囲むように配置され、それぞれが障子や襖によってゆるやかにつながっています。区切られているけれど閉じてはいない、その曖昧さが家全体に呼吸のような流れを生んでいます。

まず案内されたのは「台所」。
もとは土間でしたが、後に床を上げて板張りにされ、現在は暮らしの道具が静かに並んでいます。食器類やおひつ、そして藁で編まれた「つぐら」など。つぐらはおひつを保温するための道具で、日々の食事を大切にしてきた時間が伝わってきます。


天井を見上げると、力強い梁が渡されています。
表面が黒く煤けているのは、かつてこの場所で煮炊きが行われていた名残です。
「この梁を見てすごいと驚く方は、雪があまり降らない地域の出身なんです。一方、とくに反応がない方は雪国育ちのことが多いですね。雪深い土地の民家では、屋根に積もる雪の重さに耐えるため、もっと太い梁が必要だから、だそうです」と、秋山さん。
なるほど、梁からもその土地の気候や暮らし方が読み取れるのだと、気づかされます。

台所から続く間は「カッテ」。
こちらはいわゆるダイニングルームにあたり、家族が食事をとっていた場所です。台所に近いところにはやかんを掛けるための小さな囲炉裏が残されており、火のそばで湯を沸かし、食卓へとつないだ暮らしの動線を想像させます。

約3.5mの重厚な上り框に接し、家の中心ともいえる居間は「ザシキ」と呼ばれ、かつてはむしろが敷かれ、囲炉裏もあったそうです。ゆっくりと腰を下ろしたくなる静けさと、長い年月を経て育まれた風格が茶褐色の床板から伝わってくるよう。時間をかけて染み込んだ生活の気配が今も残っています。


庭に面した「濡れ縁」に進むと、空気が少し引き締まるのを感じました。
長さ五間、約9mにおよぶ一枚板の縁側に佇むと、大正初期のガラス障子越しに外の光が細く差し込み、庭の花々や屋敷林の気配がすぐそばにあることを伝えます。壁の上部には空気を循環させる欄間(らんま)が数ヶ所設けられていました。

秋山さんは「この縁側から見た庭の右側には梅、左側にはツツジが植えられています。どの時期でも花を楽しめるように工夫して植えられています」。
ノスタルジックな趣のある濡れ縁は内と外をつなぎ、家の中にいながら常に自然を意識させてくれる場だったことでしょう。
主屋で最後に案内していただいたのは、奥座敷でした。
書院造りの床の間を備えた、背筋がピンとなる空間です。先ほどの居間との境目には4枚の帯戸がはめられていますが、よく見るといずれも同じ木目を持ち、同じ木から作られたものだとわかります。主張は控えめながら、細部にまで行き届いた美意識。宮野家の豊かで美しい暮らしぶりを感じさせます。



主屋を後にして、庭園へと足を進めます。
冬枯れの木立もまた味わい深く、武蔵野の面影を今に伝える屋敷林には、20mを超える樹木も30本以上を数えます。茶室の傍らにそびえる推定樹齢250年超のケヤキや、高さ27mに及ぶ雄松といった巨木はこの地を見守ってきた存在。


秋山さんが1本1本の木に目を向けながら、立ち止まって丁寧に説明されます。
「これらの木々は景観をつくるために植えられたものではありません。夏の強い日差しを和らげ、冬の風を防ぐためのもので、当時の知恵が今もそのまま残っています」。

庭園の一角に佇むのは、宮野家四代目の宮野鎌吉(みやの かまきち)翁の功績をたたえた顕彰碑です。
鎌吉翁は、かつて大森海岸で盛んだった海苔養殖に大きな技術革新をもたらした人物で、それまで使われていた木の枝に代わり、竹の枝を使うことを考案。明治から大正にかけて、目黒の竹を「竹簀(たけひび)」として供給することで海苔の増産に貢献し、宮野家の家運を切り拓きました。

顕彰碑のすぐ近くには鎌吉翁が飼い、運搬業務で助けてもらった愛馬「青(あお)」の碑や馬頭観音も祀られています。事業を支えた馬への深い愛情と感謝の念に心が温められる場です。

ところで、宮野家の歴史をたどると、その源流は鎌倉時代にまで遡ります。
源頼朝に仕えた武将、畠山重忠が戦死した後、その家臣であった宮野友右衛門左近が碑文谷の地へ移り住んだことが始まりと伝えられています。友右衛門左近は当初、碑文谷八幡宮の社司を務めていましたが、この地で農を営むようになりました。その流れを汲む末裔が宮野家であるといわれています。

門に隣接する民具展示室には、江戸時代から宮野家で代々受け継がれ、実際に使われてきた200点以上もの生活用具が展示されています。

展示室に一歩足を踏み入れると、かつての暮らしを感じさせる道具の数々に目を奪われます。大型の木桶や馬の足を洗うためのたらいなどは、当時の農作業や生活の様子を物語っているよう。

また、目黒で盛んだった筍栽培で使われていた目黒方式の道具、「のみ」や「へら」、重さを量るための「17貫天秤(約64kg)」などに加え、アンティークな「SINGER(シンガー)」社製のミシンやタイプライターなども並んでおり、時代の変遷とともに宮野家の人々が新しい文化を積極的に取り入れてきた生活の軌跡を垣間見ることができます。

なかでも、江戸から明治にかけてのものと思われる防火服「消防刺子」と消火道具「龍吐水(りゅうどすい)」は貴重な展示物。まさか民家で火消しの装束や道具を目にするとは…。



最後に秋山さんが、穏やかにこう話されました。
「宮野家は時代に合わせて暮らし方を少しずつ変えながら、この家と向き合ってきました。その生活様式の変化も楽しめると思います。また、夏は緑が濃く、秋から冬にかけては紅葉が庭を彩ります。季節ごとの表情も、ぜひ楽しんでいただきたいですね」。


門を出る頃、現代の時間へと静かに引き戻され、あらためて感じました。
宮野古民家自然園は保存された過去ではなく、時代を越えて今もなお息づく、美しい暮らしの記憶なのだと。
INFORMATION

一般財団法人 宮野古民家自然園
東京都目黒区原町2-5-8
03-3712-0100
http://kominka380.ec-net.jp
